もろともに――前大僧正行尊

 久しぶりの空気。春の空気。思う存分吸い込んで、生きていることを確認する。

 今しがた抜け出てきたカプセルを振り返る。

 かすれて僅かに判別できる識別番号の横には、

『タカシ・ヤマユキ』

 確かに俺の名前が記されていて、スリープタイマーはきっかり百年を指している。


 ストレッチをしてみた。毎夜、眠る前にしていたルーティーンだ。

 百年のコールドスリープから覚めたばかりにも関わらず身体は思ったよりスムーズに動く。科学技術とは大したものだと一般人の身であらためて感心しながら、しかしこれはどうにかならなかったのかと頭上を見上げた。


 天井に大穴が空いている。

 そこから覗くのは何とも言えない薄茶色をした空。雲だか煙だかわからないものが穏やかな風に乗って流れていく。

 それでも春だとわかるのは、俺が眠りについたのが春だったからだ。


 内臓が寝ぼけているのだろうか。

 まだ痛みは感じない。


 俺は不治の病と言われる難病を患っていた。

 だから俺はある種のタイムカプセルに入り、当時の技術では治せないその病は未来の医者に託された。

 治療法が見つけられ次第起こされて、それから治療を受けるはずだった。

 見つからなければそれで百年きっかりで起きることになっていた。それからどうするか考え相談する時間があるはずだった。


 なのにこれはどういうことだろう。


 俺は立ち上がって周囲を見回す。

 広い空間に何百と並ぶカプセルの中で無事なものは一つとしてないようだ。

 試しに隣のカプセルを覗いて見れば、表面のガラスは大破し、横たわるのは不完全な白骨のセット。

 他のを一つひとつ覗いていったとしても同じ光景が目に入ってくるのだろう。


 俺は自然と手を合わせて黙祷した。


 無音だ。


 まるで時が止まったようだ。

 俺だけが時の流れに取り残されたように、心臓を力強く波打たせている。

 生きている。


 いつまでもこんな所に立っていても仕方がないので、俺は外に出ることにした。

 幸いにも建物の構造は百年前から変わっていないようだ。眠りについてからそう経たないうちになったのかもしれない。


 じゃり、と踏んだものはぼろりと崩れた白骨の粉。

 空と同じ色の砂が建物内の床まで吹き込んで、無数の人間だったものと混ざり合っている。

 素足に患者用サンダルを引っかけて、俺は変わり果てた研究所の中を歩き回った。


 途中で通信室に入って、履歴を覗く。

 最後の通信記録は俺が眠りについてから二十年後。核ミサイルで大都市がどうたらこうたら。

 他の場所へ信号を飛ばそうと試してみたが駄目だ。さすがに電源が切れている。

 少なくとも俺の目に入る限りの世界は滅亡したようだ。


 部屋を出てさらに歩いていくと、向かう方に白く切り取られたような光が見えた。

 どうやら全面ガラス張りの玄関も深刻なダメージを受けているらしい。自然そのままの生温い風が馴れ馴れしく頬をなでてくる。

 外に出た。


 荒涼としている。


 そんな言葉がしっくり似合う風景。

 もとよりこの研究所は人里離れた場所にあった。しかしかつてのここはむしろ生命に囲まれていた。

 緑の木々が生い茂り、どこからともなく鳥のさえずりが聞こえ、動物の動く気配がする。

 そういう場所のはずだった。


 今、その面影は全くない。

 ただ枯れ果ててくすんだ茶色が斜めにごつごつと続いている。

 足元からかつて青かった山の峰まで、見上げる限り死の色だ。


 俺は咳込んだ。

 病のせいか舞い飛ぶ砂のせいか、あるいはその両方かもしれない。


 ぐるりを見回しても目印らしきものは何もない。

 ……いや、あの山の中腹に何か、光るものが見える。

 ゆらゆらと揺れるとらえどころのない白いもの。

 何かの信号だろうか?


 まだ歩ける。歩こう。

 俺は体に活を入れ、目覚め始めた足を前へ運んだ。


 踏んでみると、地面は武骨な岩肌ばかりではなかった。干からびた草木の残骸が残っているのだ。

 簡易なサンダルは滑りやすい。足元を見つめて歩いていると、昔のことを思い出す。

 桜子はるこのことを。


 二人で山に登ったことがある。

 桜子が先を行って、俺は視界の前の方にちらつく彼女のスニーカーを追って歩いていた。

 ふわっと目前に差し出された彼女の手は、とても白かった。

 見上げると、大きな黒い瞳に自分の顔が映っていた。

 俺はその手を取った。

 温かかった。


『ねえ、どうして下ばかり見ているの?』


 ふわりと風が耳を触る。あのときの彼女の声が耳元に蘇る。

 視界の前の方を白いものがよぎる。

 顔を上げた。


「――――!」


 思わず息を飲んだ。

 白く輝き揺らめくもの。はらはらと散る吹雪は、しかし、淡い薄紅色に染まっている。


『おいで』


 ごうっ、と風が吹いた。

 ちょうどあの日、彼女の手に引き上げられたのと同じように、強情な春風が背中を押し上げる。


 桜吹雪とは、かくなるものか。


 俺は呆けたように見上げていた。

 そのほっそりとした桜の木は、この荒涼とした山にはあまりにも馴染まない。

 あまりにも瑞々しくて、あまりにも生きている。

 俺自身を生きていると言うのが恥ずかしくなるくらいに。


 手を伸ばす。花びらは指の間をすり抜ける。

 花びらがすり抜ける。

 顔に貼りつくものもある。けれどもつかみ取ろうとする手にだけは捕らわれてくれない。

 よろよろと近づいて、茶色い幹に手が触れた。


 咳込んだ。

 苦しくなればなるほど、自分が生きていることを感じる。

〝生〟が輝いて見える。

 幹の手触りが、風の力が。より鮮明に、冴え渡っていく。


 いつしか涙が流れ、珠のように散り、桜の花びらと戯れて遥か彼方へ飛んでいく。見えない青空に散っていく。


 俺は泣いた。

 隣のカプセルは彼女だった。桜子はるこだった。

『また百年後の春に会おう』

 桜子は最後にそう言った。

 俺は何と返しただろう。


 もう誰も覚えてはいない。

 死にゆく自分が確かに見える。

 散りゆく桜がにじんで見える。

 彼女はゆっくりと散る間すら与えられなかったのだ。


 俺はここで枯れていく。

 涙とともに枯れていく。


 痛いほど生きている。

 若い幹が揺れている。

 この桜を愛でるものはもういない。何もかも忘れ去られ、〝忘れる〟ということすら忘れられる。


 けれどこの桜だけは残る……。

 俺は痛みを大事に抱えて、花の傘の下、力強い木の懐で猫のように丸くなった。

 突き刺す痛みは、そのまま命だ。


 瞼の裏には、あの日の青空が広がっていた。



もろともに あはれと思へ 山桜

 花よりほかに 知る人もなし――前大僧正行尊

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和歌から始まる物語 藤堂こゆ @Koyu_tomato

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