第3話 糺《キュウ》の章


 人頭蛇身の異形は、既に倫正の頭をすっぽりと呑み込んでいた。

 ギチギチと頭が締め付けられて痛い。

 呼吸もままならずに息苦しい。

 だがこんな訳も分からないまま死にたくはない。

 倫正が最後の力を振り絞り、未だ呑み込まれてはいない腕でバタバタと藻掻く。

 呼吸がままならないせいで意識が遠のいてきた。それでも必死に生きようと藻掻く。

 死にたくない。

 死にたくない。

 死にたくな──

 そこで唐突に視界が開けた。痛くも、息苦しくもない。

 気付けば狭い空き地にポツンと佇む、小さなほこらの前に倫正はいた。

「大丈夫ですか?」

 訳が分からず呆然とする倫正の前、短い黒髪に金縁の丸眼鏡をかけた、昼に会った若い男が立っていた。男が再度「大丈夫ですか?」と倫正に問いかけるが──

「……うぅあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ! 血! 血塗れの女! 女が!! いや違う! 違う違う! 化け物! 化け物だ! 私が殺した! そう私が! 殴って! 殴って殴って! 私が! 私がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 堰を切ったように倫正の口からは叫びが溢れ出す。

「大丈夫。大丈夫ですよ? もう大丈夫。とりあえず……、落ち着いて話しましょうか?」

 絶叫し、喚き散らす倫正を宥める男。しばらくして落ち着いた倫正が、これまでの経緯を男に語った。


 一通り倫正みちまさの話を聞き終えた男が「やはりそういうことだったんですね」と呟く。


 ソウイウコト……?


「あなたは魅入られたんです。夜刀神やとがみの如く見ただけで祟るに」


 イミガワカラナイ。


「僕だって意味は分かりません。本来、怪異とはそういったものです。意味もなく、訳もなく祟る」

「そんな! そんな説明で納得出来るわけがないだろう!? 確かに私は今まで家の中にいた! 家の中で化け物に喰われそうになっていた! それがなんだ!? 何故私はこんな何も無い空き地の祠の前にいるんだ!!」

「まあまあそう怒鳴らずに……、ね? ひとまずは僕の話を聞いて貰いましょうか。僕が話している間は黙っていて下さいね」

 そう言って男がふらふらと歩きながら語り始める。それがなんだか小馬鹿にされているようで──

「そもそも……、そもそもの話をしてもいいでしょうか? あなたは四月一日の夜に女性を殺してしまったかもしれないと言いましたよね? ですが無理なんです。あなたには殺すことは出来ないんです。何故なら──」

 男が人差し指で眼鏡をかちゃりと上げ、倫正の目をしっかりと見る。

「──この場所で女性が殺されたのは四十年前であり、家が取り壊されたのは二年前なんです。ですがあの祠だけは壊すことが出来なかった。壊そうとすると事故が起きるんです」

「はぁ?」

 予想もしていなかった言葉に、倫正の口からは気の抜けた声が漏れた。

「僕も『はぁ?』ですよ。家は取り壊されたはずなのに、あなたはまるでそこに家があるかのように凝視していた。それに、それだけではないんです。ちょっとこっちへ来てもらってもいいですか?」

 男に促され、倫正が女性の家を覗き見ていた自動販売機の隣まで移動する。

「な、なんだこれは……。ち、違う! ここじゃない! ここからでは部屋が見えない!」

 倫正の視線の先、目の前には電信柱がどっしりと立ちはだかっていた。これでは角度的に女性の部屋は見えない。そもそも既に家は取り壊されて存在しないので、「部屋が見えない」という表現はおかしいのかもしれないが。

「この辺りは四十年前から景色が一変しているんです。この電信柱は老朽化によって建て替えられ、当時より自動販売機側に一メートルほど近付いている。言いましたよね。『たまたまに来て、を凝視していたんですか?』と。つまりあなたは、目の前の電信柱をじっと見つめていたんです」

 男が眼鏡をかちゃりと上げ、倫正を見る。

「電信柱を凝視する不審者が現れるのはこの辺りでは有名な話なんです。それと併せ、あの空き地の祠の前では男性の不審死が多発している。なんの繋がりもない男性が多数、まるで魂だけを抜かれたような状態で死んでいるらしいんです。四十年前に殺人事件があった場所。壊せない祠。電信柱を凝視する男。繋がりのない男性の不審死。興味が湧くでしょう? 他にも調べ物をしていたのですが、気になって色々と調べたんです。それで今日の昼、ここに来てみたらあなたがいた。いったいあなたは何を見ているのだろうと声をかけたんです。噂が確かなら、これからよくないことが起きるとも思いましたしね」

 男が朗々と語ってはいたが、もちろん倫正は頭の整理が追いついていない。

「なんだ……? どういうこと、なんだ……?」

「さっきも言いましたが、僕だって意味は分かっていません。ですが僕が調べた結果を元に、無理やり今回のことを説明するとすれば……、四十年前、ここで殺人事件が起きた。両親を早くに亡くした若い女性が一人、家に押し入った男に乱暴されて惨殺。そうして犯人の男は家の目の前、あなたが部屋を覗き見ていた場所で死んでいた」

「だめだ……、だからなんなんだ……? 訳が分からなさ過ぎる……」

「つまりこういうことですよ? 女性が住んでいた家の土地は、元々が何某かの曰くがあった。もしかすれば、両親が早くに亡くなっているのもそのせいかもしれません。見ましたよね、あの祠を。あれは夜刀神やとがみ、見ただけで祟ると云われる蛇神を祀る祠です。元より曰くのあった土地で凄惨な事件が起き、さらに曰く、穢れは醸成された。もはやその穢れは殺人事件を起こした犯人すらも取り込み、範囲を広げ、新たな穢れとして誕生したんです。見ただけで祟る夜刀神住まう禍々しき家の怪異へとね。この禍々しき──まがつ家とでも言えばいいのでしょうか……、ここは見ただけで祟られてしまう」

 そう言って男が祠が佇む空き地に視線を向ける。

「見ただけで……?」

「おそらく複雑に絡んだ穢れは様々な事象を起こすのでしょうね。忌々しくも凄惨な事件を想起させ、事件の犠牲となった美しい女性に情念を抱かせ、最終的には──」

 男が倫正の頭の上に手を置き、「がぶり」と呟く。

「ですが間に合ってよかったです。やはり放ってはおけないのでここに来てみたら、あなたが空き地で白目を向いて藻掻いていたので、腕を引っ張ったんです。ああでも、助けられるかは分かりませんでしたよ? とりあえず祠から少しでも離せば──と思っただけの行動です。まあそれでもひとまずは助かったのでしょうが、根本解決した訳ではないでしょうね。おそらく今は僕という穢れの外側にいる人間と一緒にいることで、なんとかなっているんだと思います。よければこの後でお祓いなどに付き合いますが、どうでしょう?」

 男はそう言うと、倫正に視線を合わせて柔らかい笑顔を見せた。

「なんで私だったんだ……? 何か理由が……?」

「さあ? なんででしょうね。波長でも合ったんじゃないんですか? となれば、この先も波長が合った誰かが犠牲になり続けるでしょうね」

「そんな理不尽な……」

「何を言ってるんですか? 怪異は理不尽だからこその怪異。論理的な解決を見いだせるなら、それはもはや怪異ではありません」

「そんな……ものか……?」

「そんなものです」

 再び眼鏡をかちゃりと上げた男が、思い出したように「ああそうだ」と呟く。

「大切なことを忘れていましたね。僕の名前は佐伯鷹臣さえきたかおみです。あなたの名前は?」

「私は……、私の名前は倫正。結束倫正だ」

 それを聞いた鷹臣が一瞬、驚いた表情を見せ、「そういうことか」と笑い出す。

「そういうこと? どういう意味だ? 私の名前がなにか……」

「僕の記憶が確かなら、結束姓は茨城県に多い苗字ですよね?」

「確か私の家は曾祖父が茨城出身だ。というか結束姓が茨城だと何故知っているんだ? いや……、そういえばさっき他にも調べ物をしていたと言っていたが、君はいったい……」

「僕ですか? ただの知りたがりの一般人ですよ。どうも気になったことを放っておけない質でして。苗字に関しては、珍しい苗字を調べることにハマっていた時期があったんです」

「それで……、茨城となにか関係があるのか?」

「あの祠は夜刀神を祀っているのですが、夜刀神は茨城県にいたと伝わる『その姿を見た者を一族もろとも滅ぼしてしまう蛇神』です。もしかすれば結束さんの先祖は蛇神と何らかの関わりがあるのかもしれませんね?」

「そんなのこじつけだろう?」

「いえいえ、非論理の中にこそ論理性を見い出す。これは調べがいがありますよ」

 そう言って鷹臣は楽しそうに笑い、再び眼鏡をかちゃりと上げた。



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夜刀の待ち侘ぶ禍つ家 鋏池穏美 @tukaike

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