──翌日、四月三日

「……どこだここは……？」

　薄暗い部屋の中、古めかしいベッドの上で倫正が目を覚まし、呟く。そのままギシギシとベッドを軋ませながら上体を起こし、ぼやける視界で辺りを見渡した。

　見覚えのない古めかしい木目の天井。

　見覚えのない押し入れの襖紙。

　趣味ではない苔色のカーテンに、これまた趣味ではない手触りの白地に花柄の掛け布団。

　おそらく寝室であろう室内に充満する香りにも、覚えがない。

（だめだ……、まったく思い出せない……）

　自分は何故この見知らぬ部屋で眠っていたのかを思い出そうとするが、頭がぼんやりとして何も思い出すことが出来ない。ただ一つだけ、まったく自分の好みではない苔色のカーテンには見覚えがある気がする。

　ふらふらとベッドから重い体を引きずり降ろして窓辺に向かい、苔色のカーテンを開けた。どうやら時刻は夕刻。太陽が沈みゆき、昼と夜の境が曖昧となって混じり合う逢魔時（おうまがとき）。

　窓から見る景色はどこか現実味を伴わず、まるでそこかしこから人ならざるものが溢れ出してくるかのよう。迷信などの類いを信じてはいない倫正だが、これから逃れようのない災禍を蒙るのではないかという思いに駆られてしまう。

（見覚えがあると感じたわけだ……ここは……）

　窓から見やる景色を見て、倫正がひとり納得する。ここは殺してしまったかもしれない女性の部屋、だ。

（なぜ私がここに……？　勝手に侵入……したのか……？）

　ヌチャリ。

　思案途中、手に違和感を覚えて視線を向ける。そこには毒々しいほどの赤がヌラヌラと、禍々しくも血に塗れた──

　自身の両の手。

「……うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ！！」

　両の手を戦慄かせ、絶叫する。これはどういうことなのだろうか。確かにここはあの女性の家だ。おそらく女性は既に死んでいる。となれば、自分は死んだ女性の家に侵入し、死体を弄んだとでもいうのだろうか。

（……違う違う違う……私は何もやっていない……。一昨日だって殺したと決まった訳じゃない……。落ち着け……、落ち着くんだ……。確か今日は……そう……そうだ！）

　朧気にだが、ここまでの経緯を思い出す。今日は急遽仕事を休んだはず。やはり自分は人を殺してしまったのかもしれないと怯え、仕事などしている気分ではなかった。

　朝に仕事を休む連絡を入れた後、いつの間にか眠っていて──

　昼過ぎに一度起き、ふらふらと外に出た記憶はある。そうして気付けばこの家の前に立ち、二階の窓を見ていた。

（その後だその後……、この家の前まで来て……、確か……、そう……、若い男に声をかけられたんだ！）

　家の前に辿り着いた倫正は、女性を殺してしまったかもしれない日、四月一日の記憶を必死に掘り起こそうとしていた。そんな倫正に向かい、唐突に若い男が話しかけてきたのだ。

　──ずっと怖い顔でここにいますが、どうしたんですか。

　と。

（それで私はなんと答えたんだったか……）

　倫正が考え込み、男とのやり取りを記憶の底から掘り起こす。

―――

「ずっと怖い顔でここにいますが、どうしたんですか？」

「な、なんだ君は突然……」

「ああ、申し訳ありません。あなたがあまりにも思い詰めた表情をしていたので。こ（・）こ（・）に何か思い入れでも？」

「お、思い入れなんてない！　た、たまたま！　たまたま通りかかっただけだ！」

「たまたま？　たまたまこ（・）こ（・）に来て、そ（・）こ（・）を凝視していたんですか？」

　男はそう言いながら、二階の窓辺を指差す。

　見られていた。

　おそらく少し前から見られていた。

　なぜならこの男は「ずっと」と言ったのだ。たまたまで通るはずがない。

「本当にたまた、ま……」

「たまたまであれほど凝視します？　もしかして……、ナ（・）ニ（・）か（・）あるんですか？」

「う、うるさい！　君には関係ないだろう！　放っておいてくれ！」

「いやいや、このまま放っておく訳にはいきません。このままではよくない……、ですよ？」

　このままではよくない。

　その言葉が倫正に突き刺さる。もしや目の前の男は自分を疑っているのではないか──

　と。

　だがよくよく考えてみればおかしい話だ。まだ女性が死んだかもしれないことは誰も知らないはず。そうなるとこの男は何を疑っているのだろうか。

　男がじっと倫正を見つめ──

「わ！　私じゃない！　私じゃないんだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ！！」

　──倫正は叫びながら逃げ出した。

―――

　それから他所で時間を潰し、再びこの家の前へ戻ってきたことを思い出す。

（そう、だ……気付けばまたこの家の前にいて……、項（うなじ）、が……）

　ごくりと生唾を飲み込む。

　家の前まで戻ってきた倫正の目に映ったのは、死んだはずの女性の仄白い項（うなじ）。

（嘘、だ……、嘘だ嘘だ嘘、だ……）

　そこまで思い出した倫正の頭の中、信じ難い光景が浮かぶ。それは情欲と理性の境を失った、己の凶行の記憶。

　浮かんだ記憶の中──

　ゆっくりと家の玄関へと向かい──

　運良く──

　いや、運悪く鍵の掛かっていなかった玄関の扉を開け──

　獲物を狙う蛇の如く二階へと向かい──

　女性のいるであろう部屋の扉を開け──

　窓辺で佇む女性と目が合い──

　叫ばれた。

　暴れられた。

　黙れと言って殴りつけた。

　服を破いた。

　下着も剥ぎ取った。

　逃げられた。

　追った。

　階段を駆け下りた。

　台所へと逃げ込まれた。

　包丁を握りしめた女性。

　震えていた。

　泣いていた。

　包丁を奪った。

　尚も女性は叫んだ。

　黙れと言って殴った。

　殴って──

　殴って殴って殴って──

　血と涙でぐしゃぐしゃの女性を──

　ああ──

　なんて──

　気持ちいい──

「……うぅ……うえぇ……げほっ……げほ……」

　脳裏に浮かんだ凄惨な光景に眩暈がし、胃の内容物を吐き出した。

　そんなわけはない。

　彼女に惹かれていたのは確かだ。だが自分がこんなことをするわけがない。何かの間違いだ。これは夢、夢なんだと呟く倫正の目に映る、血塗れの両の手。

「確かめ、なければ……」

　蘇った記憶が確かならば、あの女性は台所で死んでいるはずだ。もし本当に死んでいたとしたら──

　自分は殺した女性の家に再び訪れ、死体を弄んだあげく、殺した相手のベッドで眠っていたということになる。

　そんな──

　そんなこと──

　とにかく確かめなければと部屋を出ようとしたところで、ドチャリと階下から物音が聞こえた。

「なん……だ……？」

　倫正が階下から聞こえる音に耳を向ける。

　ウ……ウゥ……。

「女性の声……？　え……？　まだ生きて、るのか……？」

　そう思った次の瞬間には、部屋の扉を開け放って廊下へと転がり出ていた。

　階下から聞こえた女性の呻き声。

　女性はまだ死んでいない。

　今ならまだ助けられるかもしれない。

　せめて記憶確かな今だけは正しい行動をしようと駆け出したところで──

　異変に気付く。

　暗いのだ。

　廊下にも明り取りの窓はあるのだが、夕方にしては暗すぎる。

　ドチャ。

　湿った何かを床に叩きつけるような音が聞こえた。先程よりも近く、おそらく階段のすぐ下。

　ドチャ。

　ギシギシ──

　ドチャ。

　ギシギシ──

　ウ……ウゥ……ア……。

「なん、だ……？　助けを求めて上っ──」

　倫正の口から「ひっ……」と短い悲鳴が漏れ、その場にへたり込んでしまう。

　視線の先、階段の下からぬぅっと血塗れの腕が伸び、廊下の床へドチャリと叩きつけられた。階下から上って来ているのは助けを求める女性のはずだが──

　これは違う。

　本能がこれは違うと叫んでいる。

　階下から迫るは血塗れの禍々しきナ（・）ニ（・）か（・）。

　ドチャリと床に叩きつけられた血塗れの腕がぐぐぐっと蠢き、次いでゆっくりとソ（・）レ（・）の顔が覗くように階下から浮上する。ぬらぬらと湿った髪が顔に張りつき、その表情は見えないが──

　一目で人ならざるものだと分かる。

　ドチャ。

　ソ（・）レ（・）が完全に姿を現す。血塗れの女の上半身の下、大蛇のような下半身がうねる。

「あ、ああ、あ……」

　倫正の口からは、声にならない声が漏れた。

　あまりの恐怖にその場から動くことが出来ない。

　その間も眼前の異形はドチャリドチャリと迫り──

　ウフ……オイシ……ソ……。

　

　恍惚とした女の声。それと同時、蛇の如くしゅるしゅると倫正の体に絡みつく。

　ウフフ……ヒサ……シ……ブリノ……ゴチ……ソ……。

「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ！　やめ！　やめてくれ！！　私が！　私が何をしたって言うんだ！！」

　ミタ……デショ……？

「見た！？　な、何を！　何をだ！！」

　イタ……ダキマ……。

　がぱりと、異形の口が開く。その姿は獲物を丸呑みにする大蛇のようで──

「ご！　ごめんなさいごめんなさいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ！　やめ！　やめてください！！　たべ！　食べないでぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ！！」

　ヌチャリ。

　倫正の懇願も虚しく、頭に生暖かい感触。

　喰われている。

　頭の先から舐（ねぶ）るように、ゆっくりと喰われている。

　獣が牙を突き刺し、獲物を瞬時に絶命させる喰い方ではない。

　ゆっくりと、じっくりと、生きたまま丸呑まれていく恐怖に震えることしか出来ない倫正の耳には──

　ヌチャリヌチャリと自身が呑み込まれていく、湿った音だけが響いていた。