縁の夏に

そうざ

In the Fateful Summer

 暮れなずむ空に、聞き馴染んだ祭囃子が溶けて行く。昔と何も変わらない真夏の一時ひととき、表通りはもうお祭りに惹かれた人々で溢れ返っている。

玲依れいちゃんは益々おばさんっぽくなったね」

「それって現役未成年に言う言葉?」

「違うよ、君のお母さんに似て来たって意味」

「それも別に嬉しくないし」

 玲依ちゃんはまた少し背が伸びたようだ。そして、いつの間にか一端いっぱしの口を利くようになっている。

 そんな全てが愛らしい。それだけ僕も年を取ったという事だろう。


              ◇


『今年も玲依の事、お願い出来る?』

 叔母が生活の拠点を海外に置いてから十年以上になる。その間、叔母は突然シングルマザーになった。その辺りの詳しい事情は僕の母も聞かされていないらしい。増してや、甥っ子の僕が知る事など何もない。

 はっきりしているのは、僕に従姉が出来たという事だけだ。


 僕等は特別、近しい関係でもなかった。性差や年齢差に加え、遠く離れた文化圏で生まれ育った僕等が顔を合わす機会と言えば、お盆に祖父母の家へ帰省する時くらいだった。

 だから、玲依ちゃんの事を思い出す時、夏も一緒に蘇る。

「お祭り行くぅ、玲依も行くぅ……」

 紅い顔から譫言のような吐き出される意思。玲依ちゃんはよく熱を出す子だった。日中の暴走列車のような燥ぎ様と打って変わり、日が暮れ始めると脱輪したようになる。祖父母宅の奥の間でせる姿は、不憫そのものだった。

「お母さん、早く行こうってば」

 帰省先の愉しみは、お祭りだけだった。夜分に出掛ける事が許されるというだけで、小学生の心は躍った。

「一緒に行きたいのぉ……」

 駄目よ、また来年ね、と言い聞かせる叔母。瞳の涙を拭う玲依ちゃん。後ろめたさを振り切るように神社へ急ぐ僕。夏の夜の三角関係は、毎年のように繰り返された。


 そんな僕も中学生になると変わった。

 貴重な夏休みを一日だって帰省に割きたくない、田舎のお祭りなんか別に興味ない、と反目しながら、その実、親と行動を共にするのが気恥ずかしくて堪らない年頃になっていた。

 僕がそんなだったからか、両親も段々と帰省が億劫に感じるようになった。祖父母にしても、孫が嫌がるのならば仕方がない、と割り切ったようだった。


              ◇


 長らく疎遠になっていた叔母から連絡があった時、僕は酷く戸惑った。

 玲依ちゃんの名は、僕の日常から完全に消え去っていた。歳月が流れ過ぎていた。すっかり疎遠になった従妹に今、どんな顔で接すれば良いのか。僕の、生来のいじけた品性が頭をもたげていた。

 就職浪人の真っ只中にあった僕は、その事を理由に回答を保留にした。きっぱりと断れば良いものの、そうしない自分の優柔不断さに苛立ち、呆れた。

 そして、その夜に夢を見た。

 夜陰に咲く無数の灯火の下、僕等は途方に暮れていた。母や叔母と逸れてしまったのだ。それはほんの数分の出来事のようでいて、何年も彷徨い続けているような感覚だった。

 半べその従妹を元気付けながら、僕自身も泣きたい気分で手を繋いだ。道行きの最中さなか、同じ疑問が浮かんでは消えた。従妹は祖父母の家で臥せっている筈なのに、どうして一緒に居るのだろう――。

 自室で目覚めた僕の掌には、堅く握った掌の感触が残っていた。


「大きくなったなぁ」

「本当に久し振りねぇ」

 叔母の願い事を受け入れた僕は、およそ十年振りに祖父母の許を訪れた。突然の来訪に、祖父母は一層深くなった皺を笑みに変えて応えてくれた。

「それにしても、急にどうしたの?」

「子供の頃に行ったお祭りが懐かしくて……」

 祖父母の怪訝な顔。そこに滲む戸惑いと感慨。二人は深く探ろうとしなかった。僕は僕で、敢えて玲依ちゃんの名前を出そうとはしなかった。叔母は僕だけに全てを託したのだ。


              ◇


 闇に立ち上がる大鳥居。表通りにまで溢れる屋台。噎せ返る香りと電飾の渦。鳴り物に彩られた山車だし。この日ばかりは、森羅万象がお祭りの為だけに存在するようだ。

「人、人、人だっ」

 毎年の事ながら、喧騒の渦に思わず尻込みをする僕を余所に、玲依ちゃんは瞳を輝かせている。人混みへ身を投じる事さえ愉しくて仕方がないという顔だ。

 覚悟を決めた矢先、僕は迷った。玲依ちゃんの手を引くべきなのか。

 去年までは当たり前のように掌を差し出していた。人混みに流されない為のしかるべき行為。それ以上の意味はない。

 ほんの数秒ののち、僕はそのまま足を進めた。玲依ちゃんからも手は伸びて来なかった。

「ハンドスピナーは何処?」

「あぁ、指でくるくる回す奴か」

 世間ではとっくに廃れていても、玲依ちゃんの中ではまだブームが続いているらしい。

 案の定、射的や籤引きを覗いてもハンドスピナーは見当たらなかった。夏は変わらないようでいて、細かな部分では確実に移り変わっているのだ。

 僕は唇を尖らせる玲依ちゃんにラムネやかき氷を与え、後はもう祭囃子に耳を傾けていた。

 僕等にこれと言う思い出は見当たらない。幼い頃のほんの一時、仮初めに擦れ違っただけの、幼馴染みにもなれなかった僕等――そう、そうなのだ。だからこそ、僕等はこうして再びの夏を繰り返し、思い出を作ろうとしている。

「おしっこ」

 玲依ちゃんが大袈裟に地団駄を踏む。

 人混みを搔き分け、敷地の端に設置されている簡易トイレへ向かうと、そこにあったのは長蛇の列だった。

「駄目だな。近くのコンビニとか公園まで行こうか」

「漏れちゃうよぉ」

「まるで子供だね」

 呆れた訳ではない。後どれだけ夏を重ねれば、玲依ちゃんは大人に届くのだろう。

「あっ、確か本殿の裏に隠れて済ませた事があったよねっ?」

「……いつの事?」

「迷子になった時」

 夢で見た光景と現実が二重写しになる。

「どうせ暗いから大丈夫だよ、早く早くっ」

 玲依ちゃんが僕の手をさっと引いた。

 いつだったか、こんな場面を体験したような、そんな気がした。


 石段を上るに連れ、静寂が度合いを増して行く。息を吐きながら振り返ると、参道を中心にしたお祭りの全体像が眼下に広がった。

 この変わらない風景も、玲依ちゃんが居なければもう拝む事はなかった。ごった返す下界の何処かに、未だに手に手を取って彷徨う僕等の影が見えるようだった。

「この小さい穴って何? 沢山あるけど」

 玲依ちゃんが桜の木の根元を繁々と見て回る。もう用を済ませてすっきりしたらしい。

「蝉が地上に出た跡だよ」

「こんなに沢山?」

「巡る夏、往くも還るも、恋焦がれ」

「有名な俳句?」

「今、僕が作った」

「なぁんだ」

 以前にも同じ会話をしたように思えて来る。夢の中でしたのかも知れない。

 僕等は暫くお祭りを見下ろした。玲依ちゃんの横顔がほんのり色付いている。それは熱病の所為ではない、愛らしくも逞しい夏の色彩だった。

「……どうして毎年、付き合ってくれるの?」

「それは――」

「アタシのお母さんから頼まれたから?」

 玲依ちゃんが僕を覗き込む。

「君のお母さんに頼まれてから、何度目の夏なのかなって……」

「夏はいつだって夏だよ。玲依も玲依だし、それに――」


              ◇


 熱気の渦がほどけ始める頃、僕はゆっくりときびすを返す。そこで振り向いても、もうそこに玲依ちゃんの姿はないだろう。

 遣る瀬なさを胸に、次の夏へ思いを馳せる。一見同じようで少しだけ異なる再びの夏。そこでまた、少しだけ大人びた玲依ちゃんに逢えるかも知れない。

 夢の中で手を引き合った僕等。あれは、現在の世界で果たせなかった情景だった。涙に暮れた瞳で、お祭りへ向かう僕を見ていた玲依ちゃんは、僕を今生のよすがに選んだ。僕だけが玲依ちゃんを実態として・・・・・感じられる理由は、他に思い当たらない。


「来年は浴衣を着たいなぁ……」


 夏を締め括る台詞が、今年もまた宵闇に染み渡った。

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