幼児コヨミは電気蟻の夢を見たか?

 エピソードタイトルの元ネタはもちろんアメリカのSF作家フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』なのだけれど、私はまだこの作品を読んでいないことを先にお断りしていおく。

 映画『ブレードランナー』の原作であることも最近知ったくらいで、この映画も未視聴である。


 そんな体たらくなのになぜオマージュさせてもらっているのかというと、少し前にディックの短編集を読む機会があり、その中に収められた一作である『電気蟻』という短編小説を読んで、ビビビッとくるものがあったからである。


 あ、私、これ知ってるなあ。この小説が書き表そうとしている不安や未知なる感覚や恐れを、ずっと幼い頃に抱えていたことがあるぞ……そう思ったのだ。


 小説の内容紹介は、未読の方のために割愛する。

 ただ、ディックの作品は今でも色褪せない魅力に満ちていて、完璧にSFだけれど難しいところの一切ない、ユーモアと機知と洞察力に富んだ素晴らしいものばかりだとおススメしておく。(多くの皆さんがとっくにご存知のことだと思うけれど。)


 ちなみに、私が一番好き! と思ったのは『パーキー・パットの日々』です。そんなネタをこんな大真面目にやってくれる方、もう、最高じゃないか……です。


 『電気蟻』を読んで思い出した感覚。それは、私が小学校1~2年生の頃、登下校の時間にいつも考えていたことだった。

 私はその頃、自分の心と体があまり融合している感じがしなくて、巨大ロボットに乗って操縦している小さな自分が体の中に乗っている感覚で生きていた。

 ロボットの中から息を殺して外界を見つめているのが本当の自分で、体は世界と接触するために必要なものに過ぎないと思っていた。

 ただ、他の人間たちもそうなのかどうか、自分と同じように本当の自分を持って生きているのかどうか、そこがわからないなあと思っていた。

 そもそも外の世界が、本当に存在するのかアヤシイと思っていた。


 私が目を瞑っている間、寝ている間、外の世界は消えているのではないか?

 内側の私のために、外側の私がテレビ映像のようなものを見せているだけではないか?

 もしかしたら外の世界はみんな、本当には存在していないんじゃないか?

 人それぞれの目には全て違う世界が映るようになっていて、実は自分は一人きりで、そこが世界と思い込んでいるだけではないのか?

 

 もしそうだとしたら、私が死んだら、世界も終わるのだろうか。

 それとも、私は単にいなかったことになるだけで、世界はそのまま続いていくのだろうか。

 行きつくところはいつも同じで、最終的に私は「自分が死んだら世界が終わるのか」という命題を考えるようになった。


【自分が死んだら世界が終わる場合】

 この世界は私が作っていたことになる。私という存在が認識する限りにおいて立ち現われるものであって、その必要がなければテレビの画面が消えるのと同じように消えてしまう。

 だとしたら、私が認識しないことで一部を消すことができるのだろうか。それを消したことが私にはわかるのか、それとも消す前の記憶ごと消してしまうのか。

 「認識しながら認識を消す」という事態は矛盾をはらんでいるので恐らく後者だろうが、私の意識からも「それを認識していた過去」が消えるのなら最初からなかったことになる。つまり「一部を消す」という行為が可能だったとしても、現在の私の視点からはそれは常に不可能である。

 同様に、私が死んだら世界が終わるかどうかを、私は認識することができない。もし私の死と同時に世界が終わったとしても、世界の方は終わらず続いていくのだとしても、私の認識においてそれは必ず「終わる」のである。

 よって「自分が死んだら世界が終わる」という考え方は可能。


【自分が死んでも世界が終わらない場合】

 悲しい。自分だけ消えてしまうのか。自分以外の人間の死は自分にも認識できるから、きっとああいう感じで家族が悲しみ、お通夜やお葬式をやって、一人の人間がいたことを誰も忘れたりはしないけれど、この外側の自分の部分はなくなってしまうのだろう。

 問題は内側の部分である。中に潜んでいる自分は消えるのだろうか? それとも新たな外側を見つけるために彷徨ったりするのだろうか?

 私にはお母さんのお腹の中で目を覚ました記憶があるから(第一話『胎内記憶』参照)、それはあり得そうなことに思える。でも、その前の記憶はきっとなくなっているのだろう。

 「記憶がない」としたら、それは過去の自分と同じだとは言えない気がする。たまにテレビで記憶喪失の人の話をしているけれど、あの場合は外側の自分が残っていて、周りの人がその人のことを覚えていたり、その人自身の証明書や過去のビデオが残っていたりして、「覚えていないけれど存在した過去の自分」を発見することができるから、記憶がなくてもそれまでの自分が死んだことにはならないのだろう。

 ということは、この世界における「人間の死」とは、外側の自分の喪失を意味するのではないか。

 内側の自分はモノとしては喪失されることなく、記憶を書き換えながら、漫画『火の鳥』で描き表されていたように、幾度も外側を変えつつ別の人間として生きていくのではないか。(手塚先生は真実を描いてくれていたのだ!)

 この考え方が正しい場合、死ぬのは外側の自分だけであって、内側の自分は何度でも世界に舞い戻り再び人生を生きることになるため、世界は終わることがない。

 よって「自分が死んでも世界は終わらない」という考え方は可能。


 おやおや? どっちも可能になってしまいましたよ。


 要するに「今この時を生きている自分」を基準に置いた時、世界は自分の認識が終了すると共に終わってしまうけれど、「個別ではない生命としての自分」を基準に置いた時、世界はどこまでも続いていくことになる。

 どちらが健全かというと、それは後者である。

 自分と共に世界が終わるという考え方をする限り、人は人に対する悪行をためらいなく行うだろうけれど、生命は終わることなく連綿と続いていくという考え方をとれば、いずれまた舞い戻るこの世界のことを大切に、できるだけ居心地の良い場所にしていくための努力をするだろうから。

 

 だから仏教は輪廻転生を、キリスト教は復活の日を教義に掲げているのか!

 しっくりきた。その後私は世界宗教について学ぶのにハマり、宗教と人間の関係について深掘りしたくなり、宗教は正しく用いれば世界を良い方向に導くはずがどうしてこんな十字軍とかパレスチナ問題とかの根っこになってしまったのだろうかという純粋な疑問を真っ直ぐに抱え続けて、大学は史学科へと進むことになる。

 (その結果、そうした現代に繋がるほとんどの問題は宗教の皮を被せられた政治問題だと知ることになる。)


 あの時期の哲学的な問答は今の私の人格形成にかなり深く関わっているなあと思うし、その思考を支えたり補強したりしてくれたのは、これまでのエッセイで書き綴ってきた通り、幼少期から『火の鳥』を読み漁っていたことだとか、様々な宗教に接する機会が比較的多い環境だったお陰なのだと思う。


 そして、そんな幼児としては若干ズレた人格形成を着実に行っていった結果、小学校低学年までは友達と呼べる相手がほぼほぼ皆無のまま、登下校の間も一人でたっぷり考える時間を持てたお陰なのだと思う。(ボッチ最高!)


「自分が死んだら世界も終わっちゃうのかなあ……」

 そんな、子供の頃に誰もが抱えたことがあるような無邪気な不安を、幼児期の私もしっかり抱えていたなあという微笑ましい思い出を、フィリップ・K・ディックの『電気蟻』を読むことで思い出しました……という、オトナ女子のゆるふわ読書報告でした。


 「自分が死んだら世界は終わるか」問題、あなたも考えたことがありますか?

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詳しいことは省きますが 鐘古こよみ @kanekoyomi

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