第九小節 人が人に惹かれる理由とは

 なぜ、ルーシーと〈盤上の白と黒〉につながりがあると思ったのかはわからない。

 詮索は後回しにして、エルスは話を続けた。


「ティアは塔の最上階に閉じ込められていたらしいが、様子と話を聞いている限り、何か酷い扱いを受けていたわけじゃなさそうだな」

「どうしてそう思うの?」

「人への警戒心が薄すぎる。なんかされてたんなら、あんな無邪気に人に懐けないだろ」

「なるほどね」


 あっさりとルーシーが納得してくる。


 人を疑うものではなく、信じられる環境にいたのだろう。

 信じられる相手と一緒にいたのだろう。


 そのおかげで、エルスにもルーシーにも極端な警戒心や疑心を抱くことなく、こうしてついてきてくれるため、僥倖ではあるのだが。

 あの無垢さと従順さは危ういものがあるが、正直、好都合ではあった。……ときどき常識をどこかに置き忘れてきたような言動をしてくれるため、面倒な部分はあるが。


「あとは、ティア本人も言ってたが、数年のことしか記憶にないらしい。なんで、塔にいたのかは──」


 あと、約束もあって……

 約束? 誰との?

 フィディールとの。……でも、もう破っちゃったかな。


「──本人もわからないらしい」


 ふいにティアの世話人である女性の服を埋めたときのやりとりが鼓膜をかすめた。


 約束。


 約束を守りたい相手だったのだろう。ティアにとって、フィディール・アファナシエフという人物は。

 少なくとも、二年も外に出ず、同じ部屋で過ごして暮らす程度には──守る方も守らせる方も、どちらも大概な気がするが。


「ティアもさっきそう言ってたわね。それってどういうことよ。記憶喪失ってこと?」

「さてな。忘れたのか忘(・)れ(・)さ(・)せ(・)ら(・)れ(・)た(・)の(・)か(・)。いずれにしても彼女自身が持っている情報は少ないってことだ」

「みたいね」


 がっかり、とでも言うようにルーシー。

 ティアの前ではまるで見せなかった態度だ。

 落胆を隠しもしない彼女に、エルスは半眼を返した。


「……トレイターがやってきたときから薄々思ってたが、お前、そっちが素か?」

「うるさいわよ」


 ぎろりと睨まれた。

 ティアに見せていた姉のような優しさや、微笑みながら優雅に人をあしらう姿はどこへ消えたのやら。


「そっちが素ならさっさと出せばいいものを」


 そう漏らすとエメラルドの瞳に配慮のような色がよぎった。


「……これでも一応気を遣ってあげてるのよ。ティアの前でこんな風に会話したらあの子が可哀想じゃない」

「思いのほか、ティアに優しいな」


 意外だった。

 エルスに猜疑と警戒を向ける一方、ティアにはかなり気を遣っているらしい。


 道中、何かとティアの面倒を見ているのは目撃しているが、エルスはルーシーがティアと友好的な関係を築こうとするのは、あくまで目的の一環にすぎず、つまりは、打算から来る優しさだと思っていた。始めの頃は。

 だが、どうやら、それだけではないらしい。


「なんか服も二着も買ってやってたみたいだし……帽子も」

「だ、だって、しょうがないじゃない!」


 ルーシーは年頃の乙女らしく狼狽え始めた。エルスより四つ年上で二十歳のはずだが。


「まさか彼女があんな箱入り娘で、純粋培養だなんて思いもしなかったんだもの!」

「それについては同感なんだが」


 おかげで、エルスもいまいち態度を決めかねている。

 ティアの見た目はエルスと同い年か、一つぐらい年上ぐらいなのだが、どうにも幼い子どもを見ているような錯視を時折起こす。

 それと、ルーシーがティアに絆されるのはまた別の話なのだが、思っていた以上に情が移るのが早かった。すっかりティアに毒気を抜かれてしまったらしい。


「第一、そういうあなただって人のこと言えないでしょう!? あんなに懐かれて、さっきもかばってもらっちゃって……本当にあの子に感謝しなさいよ!」

「なんで俺が怒られてるのかわかんないが……まぁ、正直な話、中途半端に取り繕われるより、そっちの方がよっぽどマシだな」

「それはそれで納得がいかないんだけど……」

「適度に俗物な相手の方が、手を組むにはちょうどいいと言ってる」

「それ絶対に褒めてないわよね」

「褒めてるぞ」


 皮肉ではなく率直に答えたつもりだが、気分は良くならなかったらしい。


 実の姉に復讐するため、手がかりであるティアに接触してきた、というからには、もう少しぐらい擦れているかと思いきや、こっちもこっちで存外、素直なひねくれ方をしている。感情的なきらいがあるのが、やや不安材料な気がしないでもないが。


 世間知らずのティアの面倒を見ながらの旅なら、一人より二人、ではあるのだが、懸念要素がそこそこ見当たる同行者だ。

 とはいえ、わかりやすくて協力姿勢があるだけで十分だろう。

 これが、相手がいつ裏切るか本気でわからないトレイターだったら、神経を摩耗させるしかしない。

 短い灰髪の青年のふざけた顔を思い出したついでに、エルスは銀の懐中時計を懐から取り出した。

 蓋を開けば、時刻は正午を過ぎようとしている。


「……トレイターの奴、三時までにさっきの店の前に連れて戻るって言ったっけか」

「ええ。……でも、本当に約束通りあの子を届けてくれるのかしら」

「来なかったら探しに行くまでだ」

「あなた、ティアに何を仕掛けたの?」

「なんでそうなる」

「そう言えるってことは、言えるだけの何かを準備してるんでしょう?」

「どうしてお前は俺に対してはそんなに猜疑的なんだ」

「じゃあ、探す当てがないってこと?」

「さてな」

「ふーん……?」


 怪しまれても面倒だ。矛先を変える。


「そういうお前こそ、まさかトレイターと手を組んでて、俺を出し抜こうとかそういうこと考えてないよな?」


 これもまた可能性の低い話ではあったし、ティアを連れ去られた時の反応を考えれば、ないと思うのだが。

 案の定、ルーシーは吐き捨てるように断言してきた。


「あの裏切り者と手を組むぐらいなら、得体の知れないあなたの方が百倍マシだわ」

「そら、どーも」

「褒めてないわよ」

「知ってる」


 そっけない返事をしてから、そのまま会話が途切れる。

 仲が良いわけではないので、お互いに話すことがなくなればそうなるのは目に見えてはいたが。

 やることもなく、冬の路地、日陰に吹きゆく風がめくりあげる。

 切り出したのはエルスだった。


「で、三時までどうする? お前が俺を見張ってないと気が済まないなら一緒に着いてくが」


 しばしの沈黙。

 待つほどの時間もなかっただろう。

 ルーシーは頭の中を整理するような間のあと、首を横に振った。


「……いいわ。私もちょっと一人になりたいし、後で店の前で待ち合わせにしましょう」

「わかった」


 ルーシーが歩き出した。エルスの脇を通り過ぎて先に行こうとする。

 別れ際、ふと、エルスは瞳を細めた。


「なあ、ルーシー」


 それは、いつもの淡白なものではなく、自分には似合わないほど穏やかな声だった。

 エルスらしからぬ声に戸惑いを覚えたのか、ルーシーは怪訝な気配を隠しもせずに振り返ってきた。



「人が人に惹かれる理由とはなんですか?」


 口から出たのは、エルス自身、思いがけないぐらい静謐な声だった。

 それは、エルスがモンレーヴ旧市街でティアを追いかけながら自問したことでもあった。

 なぜ、過干渉をしないはずのエルスが、厄介ごとの塊のようなティアと一緒にいるのか。

 ティアが〈不協和音〉や〈ラティメリア第一計画〉の手がかりと言ってしまえばそれまでだが、それにしたところで共に行動するのは危険性の方が高い。彼女が指名手配の身であることも含め。

 オスティナート大陸の三大精鋭である〈盤上の白と黒〉が現れる前から、ずっと思っていたことだ。

 正直、モンレーヴ旧市街で暴発したティアの力に巻き込まれて派手に大怪我をしたとき、あそこが引き際だと思った。

 否。今までの自分なら、あれより前で手を引いていた。

 性格はともかく、ティアの強大な力はとてもではないがエルスでは制御しきれない。

 事前準備をさせてもらえれば話は別だろうが、前触れなく突発的に暴走された日にはモンレーヴ旧市街での二の舞だ。命がいくつあっても足りない。


 ──もう一度聞く。あの子をこちらに渡してくれるつもりは?


 オズウェルの問いかけを反芻する。

 目を半分ほど伏せ、エルスは己の答えを思い出す。


 ──ない。


 あのとき、エルスは天秤にかけた。

 自身の安全と、ティアと一緒にいる危険性を天秤にかけ、そして、ティアを選んだ。自らの意志で。


 だとしたら、自分はティアの何かに惹かれたのだろう。

 安全をふいにしてまでティアと一緒に行動することを選んだからには、自分がティアに惹かれているとしか思えないのだが、その理由がさっぱりだ。


 別にエルスは困っている人を放っておけないなんていうお人好しではない。

 それどころか、ティアの身の上にこれっぽっちも同情していなかった。


 二年前以前の記憶がなく、理由もわからず塔に幽閉されていたというのは不遇と称していいかもしれない。

 世の中、悲惨な人生を送っている人もいれば、もっとか細い生き方をしている者もいるだろう。


 故郷を滅ぼされたルーシーにしても。

 明日の寝床も食事もないために盗みを繰り返していた頃のあるトレイターにしても。


 元々、エルスは人の人生にあまり興味がない。ましてや干渉する気なんて。

 なら、自分がティアに関わろうとするのは、彼女のことが好きだとか恋しているとか守ってやりたいとか、そういった浮ついた感情かもしれない、とも思ったのだが、どうにもピンとこない。そうだったら逆に諦めもついたものの。


 なぜなら、あの少女は恋い焦がれるには幼く、人として尊敬するには足りない。


 そう、足りない。

 あの少女には足りないのだ。知識も、経験も、情緒も、何もかもが。


 好奇心旺盛なところに面倒くささを覚えることはあっても、特別、苛立ちのようなものを抱くわけでもなく、近づいてくればエルスも適度に対応もしている。

 別段、存在が煩わしいわけでもない。過度に視野に入っているわけでも。

 ただ、完全に無視することが難しい。エルスが今感じているこ(・)れ(・)は、そういった類のものだった。


 ルーシーは真意を探るような目をしていたが、質問に深い意図はないと判断したらしい。いぶかしげな顔のまま答えてきた。


「……そんなの、自分と似ているからじゃないの?」


 特に反応らしい反応を示したつもりはなかったのだが。


「なによ、その顔。答えてあげたっていうのに」


 どうやら顔に出ていたらしい。

 むっとしたような顔のルーシーから、およそ自分がどういった顔をしたのかは──理解したくなくても──理解した。理解せざるを得なかったともいう。


「……いや、今ので本格的にわからなくなったってだけ」

「何がよ」

「こっちの話。似てる……か、似てないよなぁ」


 見上げるばかりの空は、遠い。

 どこか遠い空に語りかけるようなエルスのつぶやきに。

 ルーシーは不思議そうな顔をするだけだった。

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