継ぎ音 ―歌で建てる町の補修屋―

おはつ

第1話「縁側の柱」

鵜川(うかわ)の町は、冬によく建つ。


 空気が乾くと声が通るからだ。梅雨のあいだ現場は止まり、詠士(えいし)はみんな喉を休めて暮らす。私のような補修屋にはそれほど季節は関係ないけれど、それでも十二月の朝はいい。息が白く出るのを見ると、今日は届くな、と分かる。


 詠士は喉が商売道具だから、冬でも首に何も巻かない者が多い。巻くと甘えが出ると言われている。私は巻く。合唱の現場なら誰かが代わりに歌ってくれるが、補修は一人で行くので、風邪をひくとその家がひと月待つことになる。


 戸田さんの家は、坂を上がりきったところにあった。


 築六十年の平屋。屋根の輪郭がもう甘くなっていて、遠目には水の中の家のように見える。忘れが来ている。建物は歌で組んであるから、時間が経つと組んだ歌を少しずつ忘れていく。忘れられたところは形をあいまいにする。放っておけば、家は最後に、自分が家であったことを忘れる。


「取り壊すか、直すかで迷っていて」


 玄関で待っていた青年は、そう言って頭を下げた。戸田悠一さん。祖母のハツさんが先月亡くなって、この家を継いだのだという。三十そこそこだろうか。顔に疲れが出ていた。悲しみのほうは、まだ抜けきっていなかった。


「見せていただいてから、お金の話をしましょう」


 私はそう答えて、靴を脱いだ。


「解体の見積もりも、もらってあるんです」


 背中の方で悠一さんが言った。


「そっちのほうが安いって」


「安いですよ。解き歌は三人で半日ですから」


 建てるのに八人で三日かかった家を、解くのは三人で半日で済む。忘れかけているものに忘れきることを勧めるのだから、それは楽な仕事だ。安いのは当然だった。


 まず廊下を歩く。踵で床を叩きながら歩くと、忘れの進んだところは音が丸くなる。台所の床が一番ひどかった。流しの横に湯呑みが一つ、伏せて置いてあった。先月からそのままなのだろう。私はそれを動かさずに床を叩いた。


 鞄から聴き棒を出す。壁に当てて、反対の端に耳をつける。聴き手の道具だが、補修屋も使う。まだ覚えているところは、棒の向こうからかすかに芯のある音が返ってくる。忘れたところは何も返ってこない。鴨居より上が全体に鈍かった。高音が担当した部分から先に薄れるのは、どの家でも同じだ。人間も、高いところから先に出なくなる。


 次に柱を順に手で撫でていく。木目が指に引っかからない柱が三本。それから縁側に出た。


 縁側の柱で、私は手を止めた。


 そこだけ、木目がおかしい。細かく波打っている。緊張した声で歌われた木は、こういう目になる。


「譜はありますか」


 悠一さんが持ってきたのは、桐箱に入った巻物だった。譜がちゃんと残っている家は、それだけで直しやすい。広げると、歌詞と旋律が並んで書かれている。低音は基礎と土台、中音は壁と床、高音は屋根と窓。声部ごとに担当箇所が書き分けてあって、六十年前にここへ来た合唱の人数まで分かる。八人。小さな家にしては丁寧な仕事だ。


 巻末に作譜家の名が入っていた。網代(あじろ)。私の師の名だった。六十年前なら三十そこそこ、独り立ちして間もない頃の仕事になる。小さな家に八人も呼んだのは、たぶん若さのせいだ。


 縁側の柱のところに、朱で印がついていた。


 手ずから、と書いてある。


「これ、おばあさまが歌われたんですね」


「え」


「施主がご自分で一節だけ歌う習わしです。素人でも、柱一本くらいなら歌えますから。……六十年前は、まだよくやっていました」


 悠一さんは、朱の字をしばらく見ていた。


「聞いたこと、なかったです」


 そういう人は多い。手ずからは自慢するものではない。歌える人に歌ってもらったほうがきれいな家になるのに、わざわざ下手な声を混ぜるのだから、いまでは古い習わしだと言われる。家の値段は誰が歌ったかで決まる。名のある詠士のソロが入っていれば高く売れるし、素人の声が一本混じっているだけで値が下がる。それで廃れた。


 私はそうは思わない。手ずからが入っている家は、たいてい住んでいる人が長く住む。理由は説明できない。ただ二十年この仕事をしていると、そういう当たり前が身についてしまう。


 問題は、その柱が薄れている、ということだった。


 補修というのは、もとの譜を歌い直すだけの仕事だ。合唱で組まれたところは、誰が歌っても同じ形に戻る。旋律と言葉が同じなら、壁は壁として思い出す。


 ソロだけが違う。


 ソロで組まれたところには、歌った人の声の癖がそのまま形になって残っている。声に震えがあれば木目が波打つ。息が長ければ柱は細く高くなる。だから同じ譜で歌っても、別の声で歌えば、そこは別の形に直ってしまう。


「直すと、変わりますか」


「変わります。私の声になります」


 私は正直に言った。


「家は保ちます。強度は同じです。ただ、あの木目はなくなります」


 悠一さんは黙って縁側を見た。ガラス戸の向こうで、庭の南天が赤かった。


「変えたくないです」


「では、声写しでやりましょう」


 声を写すには、声を知らなければいけない。歌を録っておく方法はないから、聞いた人に聞く。それが補修屋の仕事の半分だ。柱を直すのに一日、声を集めるのに三日かかることもある。


 できないこともある。声を覚えている人が誰も残っていない家は、どうしようもない。そういうときは正直にそう言って、自分の声で直す。料金は半分にする決まりだ。この仕事についてから、そう言わなければならなかった家が四軒あった。四軒とも、直した柱は私の声でまっすぐに立っている。まっすぐなのが、いつも少しさびしい。


 私は縁側に腰を下ろして、手帳を開いた。


 直しの見積もりは二枚に分けて書く。決まりではないが、補修屋はみんなそうする。


 一枚目に書いたのは、縁側の柱だけだった。声集めに三日、歌うのに一日。この一本で、家中のほかを全部足したより高くなる。


 二枚目に、台所の床、廊下と壁、柱三本、鴨居より上。ぜんぶ合唱の部分だから、まとめて一日半。


 二枚を並べて渡した。


「一枚目、一本だけですか」


「一本だけです」


「なんで分けるんですか」


「上が、いま直さないといけないもの。下が、あとでいいものです」


 私は縁側の柱を指した。


「これは今しかできません。声写しは、声を覚えている人が生きているあいだしかできませんから。おばあさまと同じ年頃の方は、この町にもうそれほど残っていないでしょう。十年経ったら、この柱は誰にも直せなくなります」


 それから廊下と台所のほうを見た。


「二枚目は五十年後でも直せます。合唱の部分は誰が歌っても同じ形に戻るので、私が死んでいてもかまいません。台所の床は踏むとぶよぶよして気持ちが悪いでしょうが、抜けはしません」


 悠一さんは二枚を見比べて、それからずいぶん長く黙っていた。


「……僕、まだ解体するかもしれないんですけど」


「それでも、これだけは今です」


「壊すなら、無駄になりますよね」


「なります」


 私は正直に言った。


「ただ、壊すのは十年後でも壊せます。直すのは今しかできません。いま直さなければ、十年後には迷うことすらできなくなります」


 悠一さんはもう一度、縁側の柱を見た。


 迷っている人は、たいてい一枚目だけ頼む。それは家を残すと決めたということではない。決めるまでの時間を買うということだ。買った時間のあいだに結局売ってしまう人もいるし、その柱ごと解き歌で消してしまう人もいる。それでも一枚目は無駄ではないと私は思っている。決めさせられるのと、自分で決めるのとは違う。


「一枚目、お願いします」


「では、声を集めます」


 私は手帳のページを繰った。


「おばあさま、歌う人でしたか」


「いえ、全然。歌は苦手だっていつも言ってました」


「鼻歌は」


 悠一さんの目が、少し動いた。


「……よく歌ってました。台所で。いつも同じやつ」


「歌えますか」


「僕、音痴ですよ」


「かまいません。音痴を聞くのは私の仕事です」


 彼は笑って、それから恥ずかしそうに口をつぐみ、ずいぶん経ってから、小さく歌った。


 節も何もない、ふ、ふ、ふーん、という三つの音の行き来だった。三度目で息が切れて、四度目でまた同じところから始まる。


 私はそれを何度も聞いた。途中から一緒に口の中で追った。息の切れる場所。上がりきらない音。語尾がわずかに落ちること。旋律はどうでもいい。癖だけが要る。


 隣のご主人にも聞きに行った。八十を過ぎた聴き手で、若いころは町の耐久検査を回っていたという人だ。音痴で詠士になれなかった者が聴き手になる、というのは、うちの町ではありふれた道筋だった。


「ハツさんの声ねえ」


 ご主人は目をつぶって、しばらく考えた。


「低かったよ。女の人としては低かった。それで、あんまり息が続かない人だった。長い話をするときは途中で必ず一回、区切って息を吸うんだ。あれは癖だな」


「終わりはどうでした。上がる人ですか、落ちる人ですか」


「落ちる。ぜんぶ落ちる。あの人の話は最後がいつも下がって終わる」


 鼻歌と合っていた。私は礼を言って帰った。


 もう一人、公民館へ行った。老人会の集まりがある日で、ハツさんと同じ小学校を出た人が三人いた。


 この町の小学校は、校歌が本当に校舎を支えている。だから卒業式の全校合唱は、行事であると同時に補修でもある。六年のあいだ毎年歌わされるので、大人になっても、みんな一番だけは体が覚えている。


「ハツちゃんはねえ、入りが遅い子だったよ」


 一人がそう言うと、あとの二人が笑ってうなずいた。


「一拍遅れるの。ずっと。先生が何度直しても直らなくて」


「あれは直らんよ。あの子は、人が歌い出したのを聞いてから歌う子だったから」


 私は手帳に書いた。入り、半拍遅い。素人が一拍と言うときは、だいたい半拍だ。


 直すところは一本しかないので、先に片づけておける仕事もなかった。三日で声を集めて、それから二日、声を使わずに過ごした。声写しの前は自分の歌をいっさい歌わない決まりになっている。うっかり気持ちよく歌うと、自分の癖が起きてしまう。喋るのはいい。歌わなければいい。


 六日目の朝、私は縁側に立った。


 悠一さんには家の外に出てもらう。人の息が近くにあると、声が乱れる。空気は乾いていた。障子を全部開けて、庭からの光を柱に当てた。薄れた木目が、光の中で余計に頼りなく見えた。


 譜を開き、六十年前の言葉を追う。


 声を低く落として、息を短く区切る。長く伸ばせるところをわざと途中で切る。語尾を持ち上げない。歌のうまい人がやってはいけないことを、全部やる。そして入りを、半拍だけ遅らせる。


 誰かが先に歌い出すのを待っている人の入り方だった。六十年前、彼女の前には八人の詠士がいたのだから、それは間違っていない。


 柱が応えはじめる。


 撫でてもいないのに、木目が指の先で動く気配がする。細い波が一本、下から上へ立ちのぼる。そこにハツさんの息の切れ目が来る。私も切る。二人で切っているみたいだった。


 声写しがうまくいっているとき、私はいつも自分が薄くなる感じがする。喉は動いているのに、そこを通っていくのは他人の癖で、私は管でしかない。師はそれを、いい仕事だと言った。


 彼女はきっと、六十年前のこの縁側で、大勢の詠士に見られながら歌ったのだ。ここだけは自分で歌うと言って、それで、緊張して声が震えた。だから木目が波打った。八人の合唱に囲まれた小さな家の、たった一本の下手な柱。


 途中で一度、声が引っかかった。譜の三行目、庭に向かう面の言葉のところだ。木目もその高さで一度、細かく乱れている。ハツさんもここで引っかかったのだろうと思った。乱れたまま六十年、この柱は立っていた。


 私は乱れを直さずに、同じところで同じように引っかかって通した。


 直せる粗を直さないのが、この仕事でいちばん難しいところだ。


 譜の終わりまで来た。


 私はそこで、自分の声に戻して、一音だけ入れた。


 歌い終わって障子を閉め、道具を片づけて、悠一さんを呼んだ。彼は縁側に上がって、柱に手を当てて、しばらくそのままでいた。


「あります」


 と彼は言った。


「波、あります」


 道具を鞄に戻していると、悠一さんが台所のほうを見た。


「二枚目、お願いできますか」


「まとめて一日半です。……お住みになるんですか」


「住みます」


 売る売らないの話をしていたはずなのに、その順番でそう言った。


「なら急ぎませんね。合唱の部分は春でも来年でもかまいませんから、日を決めましょう」


 私が手帳を出すと、彼は少し黙って、それから言った。


「あれ、僕が歌っちゃだめですか」


「どこですか」


「台所の床」


 鼻歌を聞いた場所だった。


「手ずからですか」


「音痴ですけど」


「かまいません。譜のとおりに歌えば床は床になります。……そのかわり、床が少し波打ちますよ」


「波打ってるほうがいいです」


 彼は笑った。私は二枚目の紙の隅に、手ずから、と書いた。朱がなかったので鉛筆で書いた。


 鞄を肩にかけたところで、彼が妙な顔で私を見た。


「志乃さんの声は、どこに残るんですか」


 言われてみると、そんなことを聞かれたのは初めてだった。私は補修しか受けない。新築の合唱に呼ばれたことは一度もない。声に癖がないので、どの声にでも寄せられる。それが補修屋としては一級だということで、つまり、私の声で組まれた家は、この世に一つもない。


 師に一度だけ、自分の声のことを聞いたことがある。網代師は、お前の声には癖がない、と言った。褒められたのか気の毒がられたのか、二十年経ってもまだ分からない。


「残らないのが仕事です」


 私はそう答えて、鞄を持った。


 嘘ではない。声は残らない。私の癖はどこにも刻まれないし、誰の声だったのかは木の側にも残らない。


 ただ、全部でもない。


 補修屋は、譜の終わりで写した声をやめて、自分の声で一音だけ入れる。継ぎ音という。残るのは声ではなく、木の中の節だ。表からは見えない。住んでいる人にも分からない。


 何十年か経って、その柱がまた薄れて、次の補修屋が来て、木の内側を覗く。そこに節がある。ああ、ここは誰かが一度直したのだな、と分かる。誰が、とは分からない。分からなくていい。ただ、この柱には手が入っている、大事にされてきた柱だ、と分かる。それだけのための一音だ。


 坂を下りながら、私は自分の喉を確かめるように、低く一度だけ声を出した。


 誰の声でもない、私の声だった。


 冬の空気はよく乾いていて、それは思ったよりも遠くまで届いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

継ぎ音 ―歌で建てる町の補修屋― おはつ @ohatsu518

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画