その建物がどこにあるのかは、誰も知らない。
昨日は路地裏に、今日は下水道の奥に、明日は高層ビルの屋上にあるかもしれない。
その建物の中の一つ。
モラトリアム責務回収課『Heaven or Hell』。
そこには毎日、億を超える人間の『保留中の罪』が届き、天使と悪魔が肩を並べ、人間の行方を残業代なしで仕分け続けている。
壁際にはファイル棚がそびえ立ち、白と黒のファイルがぎっしり詰まっている。白は赦し、黒は罰。だが机の上に散乱しているのは、いつだってその中間の灰色の帳簿だった。人間の曖昧さは、毎日エベレストのように書類を積みあげる。
カタカタとキーボードが響く室内。
天井からは無駄に豪華なシャンデリアが垂れ、その綺羅びやかな明かりの下では、今日も、死んだ魚の目をした天使と悪魔たちが入力作業に没頭していた。
「……はぁ」
誰かのため息は今日もまた、紙とインクとコーヒーの匂いに紛れて消える。ここは、善悪を裁く最後の砦にして、世界で一番ブラックなオフィス。
そんなオフィスの一角にて――。
天使のルシェルは、真っ白な制服の袖口を几帳面に整えながら書類をめくった。本来は透き通るような青の瞳を濁らせながら、淡々と「善」の判を押す。瞼の下には、隠しきれないクマが滲んでいる。
向かいの席には、悪魔のベルゼス。黒い背広に赤いネクタイを乱れたまま掛け、コーヒーを片手に書類を眺めている。前髪で隠した角がときおり光を反射するが、本人は気にも留めない。
「……なぁルシェル」
「はい?」
「また『善意からの嘘』案件だ。俺ら、あと何万件これ裁くんだ?」
「規定通りです。『相手を傷つけない嘘は小善として処理』する。それが決まりですから」
「へっ、じゃあこの『可愛くもないヤツに可愛いって言って傷つけた』のは?」
「それは……判断が難しいですね」
二人の視線が同時に書類の山を見やる。
灰色の帳簿の山は、まるで雪崩のように傾きかけていた。
「おい、崩れるぞ」
「その前に、私たちの精神が崩壊します」
かすかな自嘲を交わした瞬間、書庫の奥で昼の鐘が鳴り響いた。
――休憩時間である。
昼の鐘が鳴ると同時に、役所の食堂にざわめきが満ちた。真鍮のランプに照らされた天井は高く、今日の神訓が賛美歌調のBGMに乗って流れている。
壁際には「天使専用」、「悪魔専用」と札の貼られた自販機が並んでいて、天使側の自販機からはハーブティーや甘い乳飲料が、悪魔用の自販機からはブラックコーヒーや硫黄臭のするエナジードリンクが出てくる。
ルシェルは、亜麻色の髪を三つ編みにまとめ直し、白い制服の袖口を几帳面に折り曲げながら、ミルクティーを啜った。淡い青の瞳はやや疲れ気味で、眉間に寄った皺がまだ張り付いている。
ベルゼスは、赤いネクタイを外し、シャツの胸元をはだけさせながら、コーヒーを一気飲みした。苦みを楽しむより、胃に叩き込むような飲み方だ。
「今日の処理件数見たか?」
「……見ました。昨日の倍です。朝から小善か大悪かで揉める案件ばかりでしたから」
「まったく、人間どもはどうしてこうグレーゾーンばっか好むんだろうな。俺たちの胃が荒れるってのに」
「それは……ベルゼスさんの食生活の問題では?」
ルシェルの冷ややかな突っ込みに、ベルゼスは肩を竦めて2杯目のコーヒーを呑み干し、ささやかなる反抗として、缶をグシャリと潰した。
「それにしてもさ」
ベルゼスは唇を歪めた。
「今日の神の訓示、どう思うよ? 迅速かつ正確に、かつ人間の幸福度を優先せよってやつ」
「はい……聞きました」
「無理だろそんなん! 三つ巴だぞ! 論理的思考ができねぇのかあのハゲ!」
思わずルシェルが吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえる。
「しっ、声が大きいです。監査課に聞かれたら――」
「減給か? はっ、どうせ俺は今期もノルマ最下位で、評価最低だ。怖いもんなんざねぇさ」
ベルゼスの吐き捨てに、ルシェルは小さくため息をついた。だが、内心では同じ思いだった。どれだけ正しく書類を捌いても、結局は上層部の気まぐれ一つで修正印が押される。
天使も悪魔も、机に縛られたただの職員。
食堂の片隅で、二人の溜息がコーヒーの匂いに紛れて消えていった。
休憩を終え、机に戻った途端。
ルシェルとベルゼスの前に、新たな書類がどさりと投げ込まれた。
表紙には赤ペンで、こう記されていた。
――案件:
『すでに恋人がいる女性に告白をした結果、三角関係となり、それが露呈し、彼氏から別れを告げられる。しかし、付き合って1週間で今度は女性側が、罪悪感から新しい彼氏に別れを告げた。その男は現在ストーカーと化している模様。告白を受けた側、告白をした側、どちらを裁くべきか? また、どの程度の罪が妥当か』
ルシェルは書類に目を通すと、こめかみに指を当てて小さく唸った。
「……また厄介な」
「ははっ。いいねぇ。昼食後の眠気を吹き飛ばす案件だ」
ベルゼスがニヤつく。
ルシェルはペンをくるくると器用に回しながら、淡々と呟く。
「告白した側は、不実の芽を撒いた責任があります。恋人持ちと知りながら踏み込んだのですから」
「だけど、告白を受けた側もハッキリ断らなかったんだろ? それが三角関係に繋がった」
「……両方に過失あり、ですか」
灰色の帳簿の頁には、当人たちの言葉が記録されていた。
――『本当は諦めるべきだった。でも想いを止められなかった』
――『どうしていいか分からなかった。やっぱり前の彼氏が忘れられない』
ルシェルの眉が深く寄る。
「これは……人間らしい弱さですね」
「弱さ、って言えば聞こえはいいけどな。俺からすりゃ、愚かさだ」
ベルゼスが笑う。
二人はしばし黙り込み、書類の上に視線を落とした。やがてルシェルが小さく息を吐き――。
「……私は告白した側に軽罰、受けた側に注意処分が妥当と考えます」
「甘いなぁ。どっちも罰してナンボだろ」
ベルゼスが黒い印章を掴み、机にトンと置く。ルシェルの白い印章と向かい合うように。
「どうするよ。俺らの判定、割れちまったぞ」
「……協議です。規定通り、第三審査に回しましょう」
「はっ、また上の連中が好き勝手に判を押すわけか」
その瞬間――机の端に積まれた帳簿の山が、バサリと崩れ落ちた。紙の雪崩を前に、二人は同時に肩を竦める。
「……やっぱり、人間の恋っていうのは、一番厄介ですね」
「まったくだ。戦争よりも面倒くせぇ」
二人の嘆息が、紙とインクと胃薬の匂いに溶けていった。
それから20分後、2人がカタカタ……と帳簿をまとめていたとき。背後から聞こえてきた靴音は、やけに粘っこい響きを伴っていた。
「――これはこれは、ルシェル君にベルゼス君。また君たちの案件ですか」
声と同時に現れたのは、監査課長・ドレムス。
中肉中背、鼠のように細い目をした天使とも悪魔ともつかぬ顔立ち。翼は片側だけに黒、もう片側は白というまだら模様で、その不均衡さが彼のねちっこさを際立たせていた。
両手を背中に組み、机の前で立ち止まる。
「この程度の案件で、第三審査に回すとは。いやはや、私などには到底思いつかない高尚なご判断で」
ルシェルの背筋がこわばり、ベルゼスは顔をしかめた。
「……課長、それはその――」
「つまりつまり、“課員二名の知恵では足りなかった”というわけでしょう? あぁ、困りますねぇ。私たち上層部の1秒は、君たちの100年より貴重なんですよぉ?」
口調は丁寧だが、ひとつひとつの言葉に針のような毒が混じる。
ルシェルは俯いて黙り、ベルゼスは舌打ちを飲み込むしかなかった。
ドレムスは帳簿を一瞥し、唇の端を持ち上げる。
「それでも規定は規定。通達は下りましたよ」
彼は懐から二枚の通知書を取り出し、机に置いた。
一枚目には、こう記されている。
――『告白を受けた側』:現時刻から天国行きチケットの二ヶ月間発行禁止。
二枚目には、さらに重い文言が踊っていた。
――『告白した側』:死後三年間、地獄での清掃ボランティア及び、罪と罰の研修義務。
さらに『ストーカー化の件は治安維持課へ二次付け。報告済』と付箋が貼られている。
ルシェルの目が見開かれる。
「……三年間、ですか」
「ええ、ええ。内規第14条・三者割当(恋慕)に準拠する案件ですから。それに最近は地獄のほうが空いてますからねぇ。天国は席を確保するのも大変なんですよぉ。これでも温情措置、というやつです」
ベルゼスは椅子に深く腰を沈め、鼻で笑った。
「温情、ねぇ……ブラックジョークの教科書に載せてやりてぇ」
ドレムスは二人を見渡し、にっこりと目を細める。
「次は、回さずに済むよう頑張ってくださいねぇ。お二人の優秀なお仕事ぶり、心から楽しみにしておりますから」
その笑顔は、氷のように冷たかった。
去ってゆく靴音が遠ざかると同時に、机の上に沈黙が落ちる。ルシェルとベルゼスは互いに視線を交わし、同時に深いため息を吐いた。
「……あいつ、絶対地獄に落ちるぜ」
「悪い冗談はやめて下さい。あなたこそ、地獄に左遷させられますよ」
「いや、ここに比べたら天国だろ? 地元だし」
そしてまた、灰色の帳簿が、今日も積み重なっていくのであった。
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なんだコレ?と言うのはさておき。
ギャルを最終話まで書き終えました。あとは校正していくのみなので、まあ来週中に完結させられれば良いかなぁという感じです。
とりあえず完結させてから全体見直します。
そして完結したら、批評企画してる人のところに手当たり次第投げてみたいですねぇ。刺していただき欲が未だ止まずなので。
っというか、何だったんだこの数週間は?ってくらいあっさりと書けてしまった。まあ余計なことを考え過ぎてたんでしょうね。
うーん。ギャル終わったし、次どうしようかな。特に書きたいテーマもないしなぁ。いや、あるにはあるけれど、全然まとまんないしなぁ。はてさて。
あ、ちなみにですが、校正が終わったら一気に公開します。話数も少ないし。そのほうが終わった〜って実感出来ると思うので。
そんな感じで、よろしくお願いいたします。