雨は、もう止んでいた。
濡れたアスファルトの匂いが、まだ肺の奥に残っている。街の灯りは、少しだけ湿って、ネオンの色を吸い込んだ水たまりは、ただぼんやりと揺れていた。
路地の奥、シャッターの閉じた店の前で、私はうずくまった。吐く息が冷たい。胸の奥で、何かがずっとざわついている。
──この六年間、見ないふりをしてきたもの。
職場で吐けなかった愚痴も、誰にも言えなかった諦めも、全部まとめて錆びついた鎖のように絡みついている。
もう、限界かもしれない。
タクシーを拾い、海へ向かった。
街を抜けると、窓の外は闇と潮の匂いだけになる。ヘッドライトが濡れた舗装を舐め、やがて音のない夜の浜辺が現れた。
人影はなく、波の音だけが世界を満たしている。
靴を脱ぎ、冷たい砂を踏む。波打ち際に立つと、足元まで寄せてきた波が、まるで背中を押すように引いていき、一歩踏み出した。
──ギターの音が、遠くの方から聞こえた気がした。
振り返っても誰もいない。風も止んでいる。
再び前を向き、もう一歩進もうとした瞬間、今度ははっきりと、その音が頭の中に鳴った。
中学生の頃、ラジオで偶然耳にしたあの曲。
その後、何度もライブに足を運ぶほど、大好きになったバンドとの出会いの曲。
間違いなく、自分の人生を変え、支えてきてくれた旋律。
ベースの低音が、湿った海風を震わせる。
髪を振り乱すボーカルの声が、耳ではなく、頭の奥を直撃する。心臓の鼓動が、ドラムと重なる。
──嘘や社交辞令や、笑顔の仮面じゃない、むき出しの音と体。
そうだった、これが、私が本当にやりたかったことだ。
気づけば、大声で叫びながら踊っていた。
足に絡みつく海水を蹴り上げ、音程なんて気にもせず声をあげる度に、胸の奥を何年も締め付けていた鎖が、一つ、二つとほどけていく。
息が切れるまで動き回った末に、派手に転んで尻もちをついた。波が静かに寄せては返し、その音だけが夜を満たしていた。
頭の中では、もう音は鳴りやんでいる。
「……さむっ」
身震いを一つして立ち上がり、たっぷりと海水を含んで重くなった服から砂を払う。
ふと、海に入ろうとした自分と、さっきまでの自分。どちらが異常なのか考えて、即答した。
「どっちも狂ってるでしょ」
浜辺に投げ捨てていたスマホを拾うと、メールが一通、届いていた。
件名は『夜に滲んだLet it out』。
> 疲れた時は、冷たいものを飲めばいいよ。自分の温度がわかるから。だから誕生日プレゼントはビールでよろしく。
──こいつ、マジで。
苦笑ともため息ともつかない声が漏れる。
潮の匂いと砂の感触が、急に現実の手触りを伴って戻ってきた。
空を見上げる。雲の切れ間から、星がひとつ、滲んで光っていた。それはまるで、エンドロールの最後に残る一行のように──ただ、そこにあった。
ーーーーーーーーーーーーー
訳の分からないことをしていますが、許してください。ストレス発散です。いやっほい。