喋っていることの次元が食い違うことはよくある。何となく話が通じていない感じがするならそれは次元の相違からかもしれない。次元というのは低い高いとかいう代物ではない。要するに何を主眼に置いて話しているのかということだ。次元の異なる意見は当然対立する。殊更日本においてはヘーゲルの弁証法が崇拝されている感じがあるが、次元が異なればこういうのも適用不可である。臨機応変な対応が求められる。議論神話みたいなものが蔓延っていて議論すれば建設的な解決に至ると信じてやまない人間が多過ぎる。これは翻ってバカである。
小説の話をする。バルトは文献解釈が多義的になるのを作者が意図的に回避することはできないとした。デリダも意味は作者が書いた時点出した時点から遅れて(差延)到達すると説いた。だからなんだという話だが、私は文章を通して分かり合える人間とそうでない人間がいるのだと考えた。分かり合えないのはその主体性に問題があって、どうにもこうにも原理的に分かり合えないのだと、つまりは仲良くはできないのだと信じるようになった。つまりは次元が異なるのである。結局、政治家が書いた本など政治的意味以外の何も含意しないし、私が書いた文章も私性を排除することはできないのだ。次元次元。何でも次元。