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反省弁論

 実際のところ私が文字、なかんずく文学を道具にして自分のポリティクスを敷衍しようとしたのは事実である。それが悪徳とも思わなかった。というか文学というのはそういう性質を伴っているものだと思っているのだ。メッセージ性のない文学(そんなもの広義には存在しないと思うが)は芥なのだ。ただ逆にメッセージというのは勝手に付随してしまう面倒なものでもある。メッセージを排そうとすると無回転シュートのように軌道が分からなくなるものだ。だから私はメッセージを愛することにした。そうでないと自分の主体性が何物かに覆い尽くされてしまうと思ったからだ。しかしそういうメッセージに従属した書くという行為は、同時にひとを自明性の外に連れ出す効果を持っているようだった。私はそんな自明性の温室の中で促成栽培されているひとたちを寒冷な大地に放り出してしまったようだった。申し訳ないとは思わなかったが、気の毒だとは思った。外は寒いし風も吹いている。荒野だ。そんなところにいることを誰が好き好むだろう。私も私でそんなところは嫌いだ。でも私はメッセージに隷属してしまった者として、そういうひとたちを憐れむ一切の権利を有していないのだ。フーコーが言ったように誰かは誰かが構築した権力構造の僕としてはたらいているし、誰も自分が間違えているとは、指摘されるまでは気付かないものだ。そしてそれが誰かに作り出された感情であるということも。私のこの言葉だって誰かを傷付けるような悪であるかもしれない。それは文字の本質でもある。ただ私は何もできない、できないのである。きっとこれを読んでメッセージを感じるひともいるだろう。それをただただ気の毒に思ってしまう私も同時にいるだろう。でもそれはできないのである。私はひとを、ひとがひとをどう思ってるかなんて絵空事だ。だからただこの〈町〉には穏便であって欲しいだけなのだ。

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