• 詩・童話・その他
  • エッセイ・ノンフィクション

徒然10:年の瀬こんばんは

 年末年始は珍しく時間が取れたので、これ幸いと書き物を進めています。一休みがてら気分転換がてら、もはや日記と化した近況ノートをぽちぽちと。
(どうして君らは顔を合わせたら喧嘩ばかりするんだ、おかげで全然話が進まないじゃないか。というのが今この瞬間の私の頭にあるのですがね。何のこっちゃ? 今書いているものに対する愚痴です。いっそ一通り書いてみて、後の推敲でまとめて整理しちゃえばいいですね)


 先日Huluで「天元突破グレンラガン」と「映画大好きポンポさん」を一気見しまして。演出というものについて考えることがありましたので、以下メモ。

 引きとかカタルシスって、ああ、こういうことなのね。

 たとえばグレンラガンの第1話のラストは、シモンたちが地上に出たところまでなのですが、先ほど苦労して倒した敵と同種の敵が最後の最後で2体も出てきてエンディングというもの。なるほど確かにこれは「続きが気になる」という気がしてきます。
 ただしこの印象につながるためには、ちゃんとそれ以前の段階でキャラクターたちに感情移入できている必要があります。
 私の場合、そのチャネルがカチっと繋がったのは、おそらく地上に飛び出て上空から広大な世界を見たときでした。これは私が単純に絶景や「抑圧からの解放」というものが好きだということに加えて、映像自体も地上に出るまでは全体的に彩度を落としていたこととの対比もあったのだと思います。(地下の描写で彩度を落とす手法は第5話でも用いられていました)
 カタルシスについても、第11話のシモンの宣言が印象深くなるのは、2話分かけてきっちりと絶望の底に沈ませたからなのでしょう。きっちり沈んだうえで、力強く浮上させる。その対比でバチっと決まって見える。

 という感じで要素分解していくと、過去に漠然と見てきたものも原理レベルでつながっていく感覚があり、面白いです。
 面白いのですが、その反面、じゃあ自分が意図的にそういう演出を作品の中でしたいのかというと、これが全くそういう気にはならない。というのが興味深い。

 いや、ねえ?
 カタルシスって作ろうと思って作れるものじゃなくね? という気がしてしまうからです。
 カタルシスを生むためだけに、キャラクターたちが苦しんだりピンチに陥ったりするということがあるものなのか。そんな悪意にまみれた運命が働くことってあるものなのか。そもそも救われたり報われたりすることが約束された“ピンチ”ってなんやねん。利己的に虐め倒して、後で救いの手を差し伸べる、ということをする創造主を信頼してくれるキャラクターなんかいないでしょ。自分が逆の立場だったら、ふざけんな、って思いますし。
 もちろん自作の中でもカタルシスに相当する構図は度々見られますが、最初から作品の中で描いたような形での決着は想定していません。私自身「これどうなっちゃうの?」と思いながら書き進めているうちに、不思議な縁に恵まれてカチっと嵌るという偶然ばかりです。
 そういう計算ができる人はできるのでしょうけど、いやー、私にはしばらく縁がなさそうです。

 私にできるのは、作品の中で生じた出来事を記述する際に、書き方を調整するという編集作業までです。
 作品の中で生じた出来事は否定もせず歪めもせず、言葉の質と量で描写を使い分けること、そこまでです。
 そこら辺の線引きは間違えたくないなー、と改めて思ったのでした。

 よいお年を。

コメント

さんの設定によりコメントは表示されません