一番最初の近況ノートの中身が、2番目の物と全く同じなのをつい数時間前に気付きました……。3ヶ月気付かなかった。データを保存しておらず、ただ、タイトルが気に入っておりそのうち長編にでもと思っていた単話だったのに……。なけなしの記憶のかけらを思い起こし、書き直してみましたが、まあまあの別作品となりました。
が、よかったらお読みください。お詫びを込めて。
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『貴族ごっこは、そろそろ終わりですわね』
初夏の庭園は、白バラの甘い花の香りに満ちていた。整然と並べられたテーブルには銀器と菓子が並び、優雅な笑い声が風に乗って揺れている。
もっとも、ここに集められているのは、社交界そのものではない。
集まっているのはすべて、彼の親戚。
旧伯爵家だった彼が、身内の相次ぐ死去により公爵位を継いでから、急ごしらえで「お披露目」を兼ねて開かれた庭園パーティーだ。
「本日はお集まりいただき、感謝する」
中央に立つのは、私の婚約者――いえ、元婚約者になる予定の男。
新しく誂えた公爵家の礼装が、どこか彼の身に馴染んでいない。
その腕に、寄り添うように立つのは一人の若い女性。控えめな色合いのドレスを着た彼女は、子爵家の庶子で、名目上は彼の侍女だった。
彼の浮気相手、ですわね。
視線を向けられるたび、彼女は怯えた小動物のように身をすくめる。けれど、その指先はしっかりと彼の袖を掴んでいた。
「さて」
彼が一歩前に出る。
視線が、私へと向けられた。
「ここに集まってもらったのは、他でもない。婚約の解消を、正式に宣言するためだ」
ざわ、と空気が揺れる。親戚たちの間に、好奇と期待の入り混じった視線が走った。
私は、微笑んだ。
「理由は、君の私に対する無関心だ」
意味が分からない。
「ずいぶん落ち着いているな。だが、君も理解しているだろう。私はもう公爵だ。家格ももはや君より上。高位貴族の言うことに逆らえない」
「そうですわね」
私は一歩、庭園の中央へ進み出た。ドレスの裾が、芝の上を静かに滑る。
「ですが、その前に。ひとつだけ、確認させていただいても?」
「確認?」
「ええ」
私は扇を閉じ、まっすぐ彼を見据えた
「この婚約は、両家の共同事業を円滑に進めるための、契約。感情は、最初から付随しておりませんでしたわ。そして私は――父より正式に、両家事業の全権を一任されております」
「な……?」
彼の顔色が、目に見えて変わった。
「そんな話、聞いていない!」
「ええ。必要がありませんでしたもの」
私は書類を一枚、広げる。
「婚約解消条項。正当な理由なき破棄の場合、違約金および事業権の移譲について、明確に定められております」
「ま、待て……!」
「特に重要なのは、こちらですわ」
私は、該当箇所を指先でなぞった。
「あなたの不貞行為が立証された場合。事業の主導権は、すべて我が家に帰属する」
彼の傍らにいる侍女に指を指すと、庭園が、静まり返った。
「そ、そんな……。公爵家となった我が家が、事業を失うなど――」
「“なった”だけ、ですもの」
私は、微笑みを深くした。
「爵位とは、責任と信用が伴って初めて意味を持つもの。書類も読まず、契約も理解せず、侍女を愛人にするような方が――」
一拍、置く。
「本物の貴族だと、本気でお思いで?」
彼の隣で、子爵家の庶子が震えだした。親戚たちの視線が、一斉に彼から離れていく。
私は、静かに告げた。
「貴族ごっこは、そろそろ終わりですわね」
その言葉は、怒声でも嘲笑でもなかった。ただ、事実を告げる声だった。
彼は、何か言い返そうとして――
けれど、誰一人として味方がいないことに、ようやく気づいたようだった。
庭園には、花の香りだけが残っていた。
小さなざわめきが残る中、私は、振り返り、小道を歩いて庭園を抜ける。
「終わったのか?」
そこに立っていたのは、幼なじみのアルバートだった。ただ静かに私を見つめるその姿には、子どもの頃から変わらぬ安心感があった。
「ふふ、私の始まりはこれからよ」
風が木々を揺らし、花の香りがわずかに漂う。光と影の中、二人の間に言葉は不要だった。
互いに目を合わせ、微かに微笑む。
まだ恋と呼ぶには、少しくすぐったい――けれど、確かな存在感を感じられる距離が、静かにそこにあった。
*****
婚約破棄の庭園パーティーから、三か月が過ぎた。
かつて彼は、公爵家当主だった。
「だった」と、過去形で語られるようになるまでに、三か月も必要なかった。
まず起きたのは、事業の喪失だった。
婚約契約に基づき、共同事業の主導権はすべて彼女の家へと移管された。帳簿、契約、取引先――そのすべてが、彼の手から離れた。
残ったのは、爵位と屋敷だけ。
だが、それらは金を生まない。
次に、信用が消えた。
新公爵となったばかりの男が、婚約者を裏切り、契約書も読まずに破棄し、結果として事業を失った。その噂は、貴族社会では致命的だった。
誰も、彼と新たな契約を結ぼうとはしなかった。
「公爵家」と名乗っても、商会は門前払い。
茶会の招待状は、次第に届かなくなり、やがて完全に途絶えた。
――彼は、公爵であっても、相手にされない存在になった。
屋敷の中も、静まり返っていった。
使用人は次々と辞めていった。賃金の遅配。将来への不安。何より、「この家は、もう持たない」という直感。
最後まで残ったのは、かつて侍女だった女――子爵家の庶子だけだった。
「大丈夫ですわ。私がいます」
そう言って彼の腕に縋った女は、以前のような控えめな微笑みを浮かべていたが、彼女自身、家を支える力など持っていなかった。
むしろ、彼女の存在は追い打ちだった。
“公爵は、身分の低い愛人を正妻にしようとしている。契約も守れぬ男が、家格だけを誇っている”
噂は、悪意を帯びて膨らんでいく。
やがて、爵位維持の問題が浮上した。
公爵家としての義務――寄付、後援、社交――それらを果たす資金が、もうなかった。
国からの監査が入り、形式的だったはずの「爵位審査」が現実味を帯びる。
彼は、初めて理解した。
爵位とは、冠ではない。信用と責任の結果なのだと。
ある夜、彼は書斎で一人、古い契約書を広げていた。
あの庭園で、彼女が指でなぞった条文。当時は、意味も理解しなかった文字列。
今になって、それが自分の終わりの宣告だったと、ようやく悟る。
数日後。
彼は、公爵位の返上を申し出た。
正確には、「返上」というより、保持できなかった。かつて彼を囲んでいた親戚たちは、誰一人として、助けの手を差し伸べなかった。
――貴族ごっこは、そろそろ終わりですわね。
彼女の声が、耳の奥で蘇った。