あっというまに終わりました。
世界の終わり方。
しかしこれは、なかなかどうして、名作なのではないか?
そんな気がしております。
私が上梓した「楽園アポカリプス」も、なんであんな感じで、人類が「飽きたから滅ぶ」という形を取っているのか。
それが僕にとって一番「しっくりきた」からなんですけど、なぜそれが「しっくりきた」のか?
ということの解説に、本稿がなっています。
筋肉少女帯の歌で「トリフィドの日」を歌ったのがあります。
流星の雨が降り注ぎ、世界は破滅するんですけど、大槻ケンヂが歌うには、「あなたと私だけ残る、二人だけは生き抜く」と言うんですよね。
本稿にも「トリフィドの日」が出てきます。
「欧米の、静かな終末の小説、探してください」ってClaudeに言ったら、出てきたんですけど。
本家は、筋少版とは話がちょっと違うんですよね。
本家は、破滅する社会の中で、何とか生き抜こうとする。
筋少版は、「あなたと私だけ残る」って言います。立ち位置がずれている。
筋少版が、日本式だと思います。なんというか、本気で滅びに立ち向かってなくて、滅びの中で、美しくあろうとする。いや、筋少の場合は、美しくさえなくて、ただ自分がまっすぐであろうとする、ってことなんで、さらに削ぎ落しているんですけど。
つまり、「破滅」に対峙する姿勢が、欧米と日本では、全く違うんじゃないの?
ってことが言いたいのです。
それは、もう、記紀のレベルから違っている。
その事を考えると、僕は、なんか、じんわり嬉しい。