光秀の旅の目的地は、明に従属を強いられている北方の異民族・女真族の住む地ですが、蝦夷から直接向かわず、明が治める南方の遼東を経由します。
その理由は本編で語られますので、ここでは割愛しますが、初めて見る中華は、光秀にとってはかけがえのない経験になることと思います。
さて、光秀が上陸した遼東半島について、当時の様子をまとめてみました。
1)遼東は「省」ではなく「軍営」だった
まず光秀の目に映る遼東の異様さを決定づける事実として、明代の遼東には民政機構が存在しません。行政上は山東の管轄に紐づけられつつ、実態は「遼東都指揮使司」という軍政機構が25の衛で全土を統治する、いわば半島全体がひとつの巨大な軍営でした。住民の多くは「軍戸」として世襲で兵役を負う登録民です。
これが物語上おいしいのは、光秀が本能寺で否定しようとした「二重権威」の対極――純粋な軍事統治の土地――に、彼が最初に足を踏み入れることになる点です。しかもその軍営国家が、内側から腐り落ちています。
2)衛所制の崩壊――光秀が最初に嗅ぎ取る「腐臭」
16世紀末の遼東衛所は、制度としてほぼ機能不全でした。軍戸の逃亡が慢性化し、帳簿上の兵員数と実数が大きく乖離し、将校は空籍の兵の糧餉を着服し、兵士を私的な労役に使い、軍屯の田は将校や豪族に事実上私有化されていました。
残った兵は装備も訓練も貧弱で、実戦力はむしろ将軍たちが私財で養う家丁――私兵に集中していきます。李成梁の「李家軍」はまさにこの家丁制の極致で、国家の軍が痩せ細るほど軍閥の私兵が肥え太るという倒錯構造です。
これは光秀にとって既視感のある光景のはずです。足利幕府の奉公衆が形骸化し、守護大名の被官が実力を持った日本の下剋上前夜と、構造がそっくりだからです。「ああ、この国はこれから乱れる」と、光秀が一目で見抜きます。
3)旅順とその周辺――光秀が最初に見る「明」
旅順口は金州衛の管轄下にある軍港です。明初には山東の登州から遼東への兵糧海運の受け口として栄えましたが、この海運は中期に廃され、1580年代の旅順は往年の賑わいを失った、半ば眠った衛所の港でした。
同時に、明は「海禁」により民間の海上渡航を原則禁止しています。1567年に福建の月港だけ部分開放されましたが、北の海は依然として鎖されたまま。つまり橘屋・雁助ルートの船が旅順に着けること自体が、衛所役人の黙認と賄賂で成り立つ密貿易であり、倭寇の記憶が生々しい時代に「倭人」を乗せた船が入るのは相当な緊張を孕みます。金州衛の下級武官が袖の下と引き換えに見て見ぬふりをする――そんな場面ひとつで、明の腐敗を表現できます。
旅順から遼陽への陸路は、駅站(えきたん)の整備された官道です。金州→復州→蓋州→海州(海城)→鞍山駅→遼陽と、半島西岸の平野部を北上する約600里の道。東には千山山脈が連なり、西は渤海。高粱と粟の畑、荷を曳く牛車、駅ごとの検問――光秀一行が「明の内側」を縦断して観察できる、絶好の道中です。
