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アイヌについて

光秀が身を寄せた頃の蝦夷地についてまとめました。

1)和人とアイヌの勢力境界
 この時期、和人の支配圏は渡島半島南端のごく狭い帯状の地域(のちに「和人地」と呼ばれる範囲)に限られていました。西は上ノ国・江差方面、東は箱館近辺まで。それ以外の蝦夷地の大部分は完全にアイヌの世界であり、蠣崎氏の実効支配は及んでいません。
 重要な画期は1550年頃、蠣崎季広(慶広の父)が結んだとされる「夷狄の商舶往還の法度」です。東のチコモタイン、西のハシタインという二人の有力首長を「東夷の尹」「西夷の尹」として認め、和人商船から徴収した税の一部を首長たちに分配する体制を作りました。
 つまり1582年時点の蠣崎家は、軍事的に蝦夷地を制圧したのではなく、交易利権の分配によってアイヌ有力首長と共存する体制の上に乗っていた、というのが実態です。
 コシャマインの戦い(1457年)以来、約百年にわたって和人はアイヌの蜂起に苦しめられ続けており、力ずくで押さえ込める相手ではないという認識が蠣崎家には染みついていたはずです。

2)アイヌ社会の政治構造
 アイヌ社会では統一王権は存在せず、川筋ごとの地域集団が基本単位でした。
・コタン(村)
 数戸~十数戸程度の小集落が基本。サケの遡上する川の流域に点在します。
・首長
 コタンの長、さらに川筋・地域ごとの有力首長が存在。首長の権威は世襲と個人の力量・弁舌・財力(宝物=イコロの蓄積)の両方に依拠しました。
・地域集団
 シュムクル(西の人々)、メナシクル(東の人々)といった広域のまとまりが意識されており、集団間の対立・抗争もありました。後のシャクシャインの戦い(1669年)がシブチャリとハエの部族間抗争から発展したことからも分かる通り、アイヌ同士の戦争は珍しくありません。

 この時期、道内各地でチャシ(砦・柵囲いの拠点)が盛んに築かれたことが考古学的に確認されています。16~17世紀はアイヌ社会内部でも緊張と抗争が高まった時代で、「平和な自然民」というより、武装した交易民・戦士の社会と捉える方が実態に近い。落部コタンが蠣崎家と戦うという拙作の構図は、この点では不自然ではありません。

3)暮らしと経済

・生業
 秋のサケ漁が生活の柱。ほかにシカ・クマ猟、海獣(アザラシ・ラッコ)猟、山菜採集。アワ・ヒエなどの小規模な畑作も行われていましたが、農耕中心ではありません。
・住居
 チセ(茅葺きの家屋)。炉を中心に神窓(ロルンプヤラ)を東側に設ける空間秩序があります。
・交易
 これが最重要です。当時のアイヌは孤立した狩猟民ではなく、日本海交易網とサンタン交易網の結節点に立つ交易民でした。和人へは干鮭・鷲羽(矢羽用に本州武家が珍重)・テンやラッコの毛皮・昆布を売り、鉄器・漆器・米・酒・木綿・古着を得ます。北方へは樺太経由でアムール川流域(山丹交易)につながり、蝦夷錦(中国産絹織物)や青玉が南下してきました。拙作で雁助が黒龍江下流まで買い付けに行っていた設定は、この交易路の実在に正確に乗っています。
・武装
 毒矢(トリカブト毒=スルク)を用いた弓が主兵器。刀剣は交易で入手した和製のものを使い、儀礼用の宝刀(エムシ)は財産・権威の象徴でした。鉄砲は持ちません。鎧は簡素で、組織的な集団戦術より地形を利用した奇襲・待ち伏せを得意としました。
・信仰
 カムイ(神々)との互酬関係が世界観の核。クマ送り(イオマンテ)、火の神(アペフチカムイ)への祈り、イナウ(木幣)による祭祀など。

4)人口規模
 正確な統計はありませんが、近世の記録からの推計で北海道全島のアイヌ人口はおおよそ2~4万人程度とみられます。一つのコタンは数十人規模、有力首長が動員できる戦力もせいぜい数百人と考えるのが妥当で、落部コタン単独では蠣崎の正規軍と正面から戦えない――だからこそ光秀の戦術指導が決定的な意味を持ちます。

5)本作と史実とのずれ
 蝦夷地の砂金採掘ブームは史実では慶長年間以降(1600年代初頭)に本格化したもので、1582年時点で和人が組織的に砂金山を狙う状況は、厳密には二十年ほど早い設定になります。
 ただし小規模な砂金の存在自体が知られていた可能性は否定できず、「まだ誰も本格的に手を付けていない砂金山を小平父子が独占しようとした」という本作のトピックは、むしろ先駆性として矛盾なく処理できます。

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