光秀が蠣崎家と戦った1583年春の日本の諸大名の動向をまとめます。
1) 畿内・北陸
近江・越前一帯は、羽柴秀吉と柴田勝家の激突——のちに「賤ヶ岳の戦い」と呼ばれる戦が進行中でした。
天正11年3月10日頃、柴田勝家が兵3万を率いて北ノ庄城を出陣し、3月17日には羽柴秀吉が兵5万で対陣する形となります。両軍は近江国伊香郡の賤ヶ岳周辺(現在の滋賀県長浜市)で、織田信長の跡目をめぐって激突し、4月21日、秀吉が佐久間盛政を撃破したのち勝家を越前へ敗走させ、24日に北ノ庄城で勝家を自害に追い込みました。
2) 北陸・敦賀周辺の具体的な動き
越前敦賀は柴田勝家の勢力圏に近接していました。柴田勝家は安芸の足利義昭にまで使者を送り、毛利と結んで秀吉を挟撃しようと画策していました。敦賀の密貿易商・橘屋惣右衛門のような存在が、表の戦争とは無縁に北方交易で稼ぐことも可能な状況です。
3) 東国の動き
上杉景勝は天正11年2月7日に羽柴秀吉・織田信雄へ誓紙を送って恭順の姿勢を見せており、賤ヶ岳の戦いでも秀吉から越中の佐々成政攻撃を要請されますが、新発田重家との交戦中で出兵できませんでした。
また伊達輝宗は天正11年、相馬義胤の金山城・丸森城を攻撃しています。これは奥羽がまだ秀吉の天下統一の手が及ばない、各個割拠の段階にあったことを示しており、光秀一行が出羽・津軽を北上する道中の「中央の戦乱から切り離された」感覚そのままです。
4) 西国の動き
毛利家は柴田・羽柴の双方から協力を要請されましたが、「両方の強弱がわからないので、両方にかけて見合いをするべきだ」と日和見を決め込みました。
また天正11年4月、長宗我部元親軍が讃岐に侵攻し、十河存保の居城を攻撃、秀吉が派遣した援軍・仙石秀久を退ける勝利を収めています。
