絵は左 水鏡冬華、右 空夢風音
麻雀の鬼と麻雀のひよこ
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白い石畳に朝の光が落ちる。自動麻雀卓のモーターが低く唸り、牌が「ざらざら」と踊る音だけが中庭を満たした。誰も口を開かない。音だけが、まるで誰かの心臓のように、一定のリズムで鼓動している。
ラルスは、まだ湿った袖を気にしながら座り直した。先ほど噴水に落ちたアレッサンドロは、借りてきた厚手のパーカーを頭から被り、ぶつぶつと呟いている。
「……なんでオレまで泳がされなきゃなんねーんだよ」
誰も答えない。ぶっこぬきや千鳥、先ヅモ(先ヅモした際に盲牌を行うため)や燕返しまでもくろんでいる水鏡冬華は、黒髪を指でいじりながら、卓の中央を見つめた。レアが無言でお茶を満たし、サリサが
「にゃあ」
と欠伸をする。まるで、次の一局が始まる前に、誰もが息を殺しているようだった。
ぴぴっ、と電子音。東風戦、再開。
自動卓なので、牌が配られる。ざらり、ぱちり、ざらり。音が違う。少しずつ、重い。まるで、牌の一枚一枚に、先ほどの“戦い”の余韻が張り付いているかのように。
ミハエルは、配られた手牌をちらりと見た。すぐに、一枚を抜き取る。指先が、迷いなく動く。
「はい、東(ひがし 本当はトンと呼ぶ。麻雀では)」
ぽとり、と河に落ちたのは、東ではなかった。五萬だった。赤ではない、普通の五萬。
ラルスは、瞬きした。——え? 最初から真ん中の数牌を? それも、萬子(マンズ)の“5”を?
水鏡冬華の眉が、かすかに動いた。彼女は、自分の手元を見ず、ミハエルの捨て牌を見ていた。そして、次の瞬間、彼女の瞳が細まる。まるで、何かを“嗅ぎつけた”猫のように。
(……また、5?)
彼女の記憶が、さっと逆回しする。高度成長期の東京の裏雀荘。脱ぎ麻雀で彼女の前で罰ゲームで裸になった男たち。プロの雀士たち。だが、あの場でも、最初の1巡目に“5”を切る奴はいなかった。いたのは、今ここのミハエルだけだ。
通常、最初は字牌か1とか9の端牌。それが“セオリー”だ。5は、順子を組む上で一番使える“要”だ。それを、最初に捨てる。まるで、自分から“手の広さ”を狭めるように見える。
冬華は、牌を握りしめた。指先が、冷たくなる。
(この“愚行”には、必ず裏がある。……いや、裏などない。これは、“愚行”そのものを“武器”にしているのか?)
彼女の“エス”は、相手の心理を読むことに特化している。だが、この手の“意味のなさ”が、むしろ“意味”を生んでしまう。まるで、真っ白な紙に“何も書いていない”ことで、相手を“何かを探させる”罠だ。
ミハエルは、にこりと笑った。まるで、子供がいたずらを見破られた時のように、嬉しそうだ。
「冬華くぅ~んくぅ~ん。随分とわたしの手牌に興味があるようだね?」
彼は、もう一枚、5を切った。今度は五筒だった。
「……何考えてんの? 初手5切りって」
水鏡冬華は、低く呟く。声が、少し裏返る。彼女にしては、めずらしい“動揺”だ。
ラルスは、自分の手牌を見た。東、発、白、そして3索、7筒。まだ、形になっていない。でも、父の“5”が、頭の隅に引っかかる。
(最初の1巡だけ、5を切る。……なんで? 意味、あるの? いや、あるからやってるのか? ないから、やってるのか?)
アレッサンドロは、牌を睨んでいた。彼にとって、5を切るのも、東を切るのも、同じ“意味不明”だ。だが、ミハエルの“笑み”が、妙に怖い。まるで、自分が“試験用のネズミ”にでもなったような、そんな気がしてならない。
サリサが、耳をぴくりと動かし、くすくす笑った。
「あー、また始まった。ミハエルの“意味わかんなさアピール”」
レアは、無言で茶を注ぎ直す。表情は、変わらない。でも、茶碗の縁が、わずかに震えた。彼女にも、ミハエルの“意味のなさ”が、“意味ありげ”に響いたのだ。
ミハエルは、牌をくるくると指で回し、ややあって、語り始めた。まるで、先生が子供に授業をするように、ゆったりと。
「麻雀とはな、ラルス君、アレッサンドロ君。ただの“牌遊び”ではない。卓上に漂う“不幸”を、どう“禁止”するか。そして、どう“相手の不幸を誘う”か。——それが、“エス”であり、“呪禁道”なのだよ」
彼は、五索をぽん、と河に置いた。まだ、5だ。
「まず最初に、“定石という不幸”を禁止する。世の中の“最初は端牌”という“決まり”は、便利だが、同時に“予測”を生む。私は、それを、最初の1巡で壊す。相手は“なぜ?”と考える。その“考える”ことが、すでに“ノイズ”だ」
冬華は、唇を噛んだ。——予測の外。それが、彼女の“イカサマ”の精度を、わずかに狂わせる。
「次に、“心理的攪乱という不幸”を招く。5は“真ん中”だ。重要そうに見える。それを“ポイ”と捨てる。相手は“深読み”する。深読めば、深読むほど、“思考の隙”が生まれる。……冬華君、君のような“読み手”ほど、ハマる罠だよ」
冬華は、目をそらさない。でも、指先が、牌の裏で、微かに震えた。
「そして、“牌山支配という不幸”を作る。1巡目の“5”は、卓の“流れ”に小さな“ズレ”を生む。私はそれを“霊波動”で固定する。相手の“千鳥”や“ぶっこ抜き”は、その“ズレ”を読み違える。つまり、イカサマの“土台”を、こっそり崩す」
ラルスは、息を呑んだ。——父は、イカサマを“見破る”だけじゃない。イカサマの“前提”ごと、溶かしている。
