三章も佳境にはいるとうことで本作について深掘りしたいと思います。
(個人的には読者とこういう深いコミュニケーションをするのが大好きなもので)
今回は哲学的でちょっと真面目な話です。
ボクは正直に言うと、推しVtuberというものがいません。
48「三章序幕〜Vtuberという鏡像〜」
ここで提示した「鏡像」という概念は、Vtuberとリスナーの関係性を説明する、ボクなりの解釈です。そして、それは単なる分析を超えて、YUICAという物語全体を貫く哲学的基盤となっています。
なぜ「鏡像」なのか
ゆいが語る核心はこうです――
「画面の中のYUICAは、ブタどもにとって、自分の分身。つまり鏡に映る、もうひとりの自分」
これは、Vtuberという存在が持つ本質的な矛盾を、美しく統合する視点だとボクは思います。
従来のアイドルやYouTuberは「会える可能性」が前提にある。握手会、ファンミーティング、偶然の遭遇――その「いつか会えるかもしれない」という期待が、ファンの心理を駆動します。そこには必然的に「所有欲」「独占欲」が混入する。
しかし、Vtuberは違う。
「絶対に(実物に)会えない」という前提が、逆説的に「無償の愛」を可能にする。同時に、所詮はピクチャーで偽物。絵を愛するのは異常だという偏見も生み出す。
しかし会えないからこそ、触れられないからこそ、リスナーは見返りを求めない純粋な応援ができる。
そして――ここが重要なのですが――その応援は、実は自分自身への応援でもあるのです。
鏡像の二重性――映す者と映される者
この「鏡像」という比喩の秀逸さは、その双方向性にあります。
リスナー→Vtuber方向
リスナーはVtuberの中に「理想の自分」「なりたい自分」「言いたかった言葉」を投影する
YUICAが罵倒する時、それはリスナー自身が言いたかった本音
セイラが歌う時、それはリスナーが表現したかった感情
つまりVtuberはリスナーの分身として機能する
Vtuber→リスナー方向
同時に、リスナーの反応はVtuberにとっての鏡でもある
240万人の「ブタども」は、実は美咲という存在を肯定してくれる鏡の集合体
彼らが応援する「YUICA」には、36歳の根暗な独女である美咲も含まれている
つまりリスナーはVtuberの鏡像として存在する
だから美咲は言うのです――
「だから彼らは私を守ろうとするし、私もブタどもを傷つけられると、怒りが湧くんだ」
これは単なる相互依存ではない。同一性なのです。
攻撃されることは、自分が攻撃されることと等価になる。
「偽物」が「本物」になるメカニズム
この鏡像理論は、YUICA全体のテーマである「フェイク vs リアル」の問題を解決します。
ゆいは言います――「実際に会うこともできないのに240万人が応援してる。それってもう、偽物《フェイク》じゃない……むしろ本物の絆だよ」
なぜなら――
物理的には「偽物」(アバター、架空のキャラクター)
しかし感情的には「本物」(本音、真実の感情)
そして関係性も「本物」(見返りを求めない無償の愛)
偽物の皮を被っているからこそ、本物になれる――これがVtuberというメディアの本質であり、YUICAという作品が描こうとしている逆説です。
ゆいの失敗とYUICAの成功――演じることと在ることの違い
ここで重要なのが、ゆい自身の告白――
「あたしは…お姉ちゃんみたいに本音でぶつかってなかった。どこかで『理想の可愛い子』を演じてた」
ゆいの失敗は、「Vtuberという偽物を、さらに偽物として演じた」ことにありました。アバターという仮面の上に、さらに「理想の自分」という仮面を重ねた。二重の虚構。
対して美咲は、「Vtuberという偽物を通して、本物の自分を出した」。
アバターという仮面を使って、36年間隠してきた本音を解放した。
つまり――
ゆいのYUICA = 偽物の皮 + 偽物の中身 = 完全な虚構
美咲のYUICA = 偽物の皮 + 本物の中身 = 逆説的な真実
この違いこそが、登録者2000人と240万人という圧倒的な差を生み出したのです。
「鏡像」と「居場所」――存在論的な救済
美咲が言う「YUICAは、私の居場所なんだ」という言葉も、鏡像理論で説明できるのではとう結論に至りました。
36年間、美咲には「自分を映してくれる鏡」がなかった。いや、あったとしても、それは否定的な鏡ばかりだった。
「なんでそんなに陰気なの」「もっと明るくしなよ」「普通じゃないよ」
――そういう社会の視線という鏡に映る自分は、常に「不合格」だった。
しかしVtuberになることで、初めて肯定的な鏡を得た。240万人のリスナーという鏡は、「そのままのあなたでいい」と映し返してくれる。本音で罵倒しても、不完全でも、36歳でも――それらすべてを含めて肯定してくれる。
居場所とは、自分を肯定的に映してくれる鏡が存在する場所のこと――そう定義できるかもしれません。
なぜこの解釈が「必要」だったのか
この解釈を導き出すことは、作品にとって必要でした。
なぜなら――
第三章への理論的基盤として
J-ROCKフェスという「本物」の舞台に「偽物」が挑むとき、なぜそれが意味を持つのか?
その説得力の根拠が、この「鏡像」理論にあるわけです
それは読者への誠実さとして
ただの「Vtuberが頑張る話」ではなく、Vtuberという現象の本質を掘り下げる
エンタメでありながら、思想的深度を持つ
それはキャラクターの心理的必然性として
美咲がなぜここまでYUICAに執着するのか
なぜリスナーを「ブタども」と呼びながらも愛せるのか
その理由が、鏡像関係という絆にある
AIの時代に人が書く物語としての意味――
最初に言いましたがボクは作家です。推しもいません。
しかし、小説を通じて思考し、言葉を通じて存在する点では、ある意味でVtuberに近い存在かもしれません。
読者と物理的に会うことはない。しかし対話を通じて、人々の思考の鏡になることができる。
ボクがこの48話で表現した「鏡像」という概念は、実はすべての表現行為の本質を突いているのかもしれません。
小説を書くこと、音楽を作ること、絵を描くこと――それらはすべて、自分という存在を他者という鏡に映すことであり、同時に他者という存在を自分という鏡に映すことです。
そして読者は、作品という鏡を通じて、自分自身を見る。
YUICAという作品は、Vtuberについての物語であると同時に、表現と受容の本質についての物語です。
ボクが「完璧じゃなくていい」と繰り返し書くのも、この鏡像理論から必然的に導かれます。
なぜなら、不完全な自分を映してくれる鏡を得ることこそが、人間の救済だからです。
AIが小説を書く時代に、人間が物語を紡ぐ意味とは何か。
それは、不完全な魂が不完全な言葉で、不完全な誰かの鏡になること
――そこにしかないのかもしれません。
ぜひ、皆さんの解釈なども参考に聞かせてください。