別にプロの作家でもなんでもないのに創作論めいたことを語るってのはたいへんおこがましいけれど、ふと考えたことを(自分用の備忘録も兼ねて)ここに書き残しておこうと思います〜‼️😈👙
最近読んだ本に、「発明は必要の母」という言葉が出てきました。
それを言うなら「必要は発明の母」でしょ〜〜〜?(CV:トンガリ)
ちっちっちっ😇☝
本曰く、この世の発明の多くは生み出されるべくして生み出されたわけじゃなく、ある発明をどのように活用するかは発明がなされた後で考えられる、とのこと。
例えば蓄音機には、それを完成させたかの天才発明家エジソンによれば、当初は遺書の録音、盲人用の本の朗読、時報のメッセージ……などなど10通りの使い道があるとされていました。
しかし、肝心の音楽の録音再生にはそれほど重きが置かれていなかったのです。
なんならエジソン自身は、蓄音機を改造して作られたジュークボックスが発売された際、自分の発明の品位を汚すものとして反対までしたと言います。
エジソンが、蓄音機の主たる用途は音楽の録音再生であることをしゃーなし認めたのは、発明から20年も経ってからのことでした。
同じく、自動車はもともと金持ちのおもちゃにすぎなかったし、カメラもタイプライターもテレビも、それがこの地上に出現した段階では、必要性なんてなかった。
「必要」を母として生まれた「発明」はごく一部で、多くの「発明」にはむしろ後から「必要」が追いついてくるのだと言います。
さてさて、ずいぶん長い前置きだったけれど、「発明は必要の母」というのはまさしくわたしが小説を書くときに考えていることでした😌💭🏩
いま投稿している『熊埜御堂姉弟の受難』という小説で、わたしが姉を語る時のナラティブ(🎀大江健三郎ガチリスペクトなのでわたしは「語り方」的な意味でこの単語を用いています🎀)として採用している、
「読者に伝わるとは到底思えないしそもそも伝えるつもりもない、2000年代初頭のテレビや音楽やお笑い芸人のネタを無限に引用した、大半が本質や中身とは無縁のおおよそ物語の本筋には関与しない無意味かつ冗長な描写に費やされた、仮に映像作品ならば『放送事故』としか処理されかねないような文章」
は、必要に迫られて創出したものなんかじゃ一切なくて、純粋な好奇心の産物。
このナラティブが、いったいぜんたいどんな物語を語るうえで最も効果を発揮するのか、それを試行錯誤する試みそのものが目下執筆中の『熊埜御堂姉弟の受難』なのです。
ちょっと話変わるけど、わたしはぶっちゃけ小説の世界で「ストーリーの面白」では戦えないと自覚しています。
これは決して卑下や自己憐憫で言ってるんじゃなく、わたしの性格上そもそもストーリーの面白にそこまで興味がないのだ。
その証拠に、わたしは基本的にどんな小説・映画・ドラマ・アニメ作品に触れても(漫画は読み方がわからないので読まないのです……🥺)、「良かった」か「わかんなかった」の二通りしか感想を抱くことができません。
逆張りとか感想の言語化をサボってるとかでもなく、本当にこのどっちかしか感じられないのです。
それは言うなればわたしのセンス(わたしはこの言葉が戦争といじめの次に大っっっ嫌いなんだけど、あえて言うなら)が死んでるってことなんだろうけどさ🙄🍥🍧
でもまれに、これら以外の感想を抱く時があって。
それが「文章が変」「撮り方が凄い」「編集が独創的」みたいな、要はハード的色彩の強い部分に心の針が引っかかるのね🤒🌵
なら、自分の作る作品も、それを目指して作ってみようよってわけ。
極論、面白い文章が書いてあったらそれは少なくともわたしにとって立派な小説で。
わたしにしか書けない物語はなくても、わたしにしか書けない文章っていうのはあるはずなんだ、きっと。
そんなようなつもりで、わたしは文章を捻り出しているよ〜😍
みなさんはどんなことを考えてお話を作られていますか❓
差し支えなければこっそり教えてもらえたら嬉しいです🤗❤️🩹
𝑺𝒆𝒆 𝒀𝒐𝒖 𝑵𝒆𝒙𝒕 𝑻𝒊𝒎𝒆……🚅😎💨