ちょいと、ふと思ったことを。。
2021年の朝日広告賞のやつが話題になっていますね。
https://www.asahi-aaa.com/backnumber/2021/ヤバい、エモい、という言葉が、あらゆる形容を包含する、『ヤバい』新語であることを表した、例の図表です。(画像添付は権利関係が不安なので控えておきます)
そう考えてみると、僕も結構『エモい』を使いますね!
実はですね、僕の使っている『エモい』は、20年とか前の『エモい』なんです。(どうでもいい)
ロッキンジャパンの記事とかで、結構使われていた言葉である記憶があります。
むろん、emotionalの翻意というか、変訳であり、メロディやリリックに感情を動かされる、みたいな意味でして、まあたぶん、今でいう『エモい』と大差はないんでしょうが。
そこで、ヤバい、エモい、なんて言葉は脳死の語彙狭窄をもたらす言葉であるかというと、僕はそうは思わなかったりします。
もっと言うと、『言わずもがな』ってことかなァと。
会社などで、目配せして仲間うちで符牒を伝える。『ね』という一言で全てが伝わる。
これは、言語自体の意味ではなく、『ある背景に基づく瞬間』を共有する符牒……。
つまり、『これ、わかるよね』という、瞬間を示す時間言語なのだと思うのです。
↑ これ自体がもう、その時間言語になっているかも、、ですが
翻って、ヤバい、エモい。
これはまあ、『創作物などの、ある瞬間の心の動きと共鳴。そこに同じ感覚を持つことを確認する、符牒であり、タイムラインはのタグ付け』などと思うのです。
なんだろう、、
つまり、『ヤバい』『エモい』というのは、そのタグ付けのセンスを確認しあう合図であり、それ以上の意味を求めるものではない、ということを言いたいのです。(てことにしておこう……わからなくなってきた)
で、また翻って、僕がたまに言ってしまう、『エモ作劇』というものについて補足しておくと、それは暗に、『悲劇ストーリーの深まりが、多層的かつリアリティを持って浸透してくる』というものを、たぶん、指しています。
これをきちんと言語化せずに済ませてしまう、僕の怠慢は申し訳ないのですが、まあ一種、このカクヨムという場、時間軸での『符牒』として、信頼して使っている節があるわけです。
(↑ すみません。めんどくさい語りになってしまった、、)
つまり、言葉に罪はない! ということであり、言葉というものは、必要があれば憶えるし、語彙は多い方がいいけど、『時間言語』を読み解く感性も大事なんじゃないかな、っていう逆説的なものでした。