小説の新作を出さないで、豆本の新作を出そうとしているじょーもんです。
皆様いかがお過ごしでしょうか。
私が豆本屋を始めてから、ずっと惨敗し続けている作品が三つあります。
夏目漱石『吾輩は猫である』
与謝野晶子訳『源氏物語』
夢野久作『ドグラ・マグラ』
かつて惨敗シリーズに入っていた江戸川乱歩の『孤島の鬼』は、数年前に制覇しました。
これらは、あまりにも文字数が多いため、『豆本』という形態に納まりきらず、納めたとしても、京極夏彦氏の著書のごとき分厚さが保証されているため、『豆本』として美しさが担保できない、という理由で、惨敗し続けております。
そんな中で、ふと、何度目かの挑戦に、立ち上がってしまったのですよ……
ってか、小説は……
本音言うと、ちょっと、たぶん、これは、スランプってやつではないかな……
実は、拙作の中で、ある作品だけが評価されておりまして……
あー、カクヨムではおしなべてどれも低調ではあるのですが、なろうの方でですね……
あの作品を、私は越えられる気がだんだんしなくなってきて、何を書いていいのか、前は湯水のごとく湧き出でていたアイディアの源泉が、ちょろちょろとしか湧かず、掬い上げんといたし候とも手指の間からこぼれ落つるばかり。
いいや、このアイディアの方がよろしいのでは。いや、整合性が、いや、革新性が、いやいやいやいやいや、テンプレのお決まりは押さえし上に、独自色をば彩しこそ、肝要なりて……。
ちょっと待て。
文体が『ドグラ・マグラ』に侵されているではありませんか……。
うん、豆本の版組しているとさ、かなりがっつりその世界に入り込んじゃうから、すっごく影響されちゃうんです。
だから、小説書きながらは、豆本の新作出せなかったんだよね。
で、作りながらちゃんと読むわけですよ。
『ドグラ・マグラ』は、読むと精神に異常をきたすと触れ込みの奇書ですね。
今半分くらいなのですが、まあ、精神に異常はきたさないかな。
それよりも、書かれた時代背景を踏まえながら読むと実におもしろい。
こんな内容が許されるのか、と驚かされるばかりです。
現代でこそ、『狂』という字が、精神に異常をきたす以外の利用法でも校閲に引っかかりますけど、私は既に一生分『キチ○イ』を打ち込んだ気分です。
倫理観や、エログロのラインも微妙に違って、「あー、これはダメで、これは良いんだ?」ってのに、何度もぶち当たります。
あとは、アインシュタインの相対性理論が、いかに当時の知識人を夢中にさせていたかを実感させられました。
だけど、正直きつい。読むのだけでもやりきれるかわかんなくて……
「そうだ。これはラノベだと思って読めばいい」と閃いてしまったんです。
主人公は、絶世の美男子で18歳。たぶん頭もよくて、でも記憶がない。
隣の病室にいるのは、絶世の美少女。彼女も記憶はないけれど、主人公が自分の愛しい婚約者であることだけは覚えている。
冒頭だけだったら、
『精神病院で目覚めた俺、記憶はないけど、隣の病室の美少女が嫁だと言い張ってくるんだが?!』
みたいなタイトルで行ける……よねぇぇぇぇぇぇっっっっ?!
するとアーラ不思議、読める、読めるぞっっ!
途中までは良かったんです。
だけど、途中から、何か資料編みたいになってきてしまって……
いや、それでも面白いには面白いんですがね。
何て言うか、日々、10万余字の中で、連載の一話一話の引きだの、
中盤の盛り上がりだの、
フックだの、テンポだの、営業だの、更新時間だのタイトルだの、宣伝文句だの、
クソ真面目に検討して、キリキリやっている妾がなんだかバカみたいじゃあないですか。
いいんですかっ!
こんなにラノベのタブーを次々踏み抜いて、それでも読者はついてきてくれるんですか!?
これでも書籍化するんですか?! なにぃっ、映画化もしていると?! けしからんっ!
落ち着け。これはラノベではない。
あれ? ちょっと私、やばくない?wwww
まあ、『ドグラ・マグラ』を読んでみて、
もちっと小説、自由にやってみてもいいんじゃないかなーって思いました。
ええ、ランキングとかpvは捨てることになるでしょうけど……