『「普通」と言う暴力的な言葉について——教室というブラックボックス——』
を読んでくださった皆様、見守ってくださった皆様、ありがとうございました。
温かな感想をくださった方々の存在が本当に心強く、私は一人ではないのだと癒されました。
この場を借りて感謝申し上げます。
このエッセイは、私の怒りや悲しみの整理を兼ねて書き始めました。
もっとスッキリまとめられたら良かったのですが……
当時の私の周りは、病気の上の子(精神的に余裕が無く話が通じない)とイヤイヤ期の下の子(年齢的時期的に話が通じない)、上から目線の自分の親族達(価値観が違って話が通じない)、上から目線の担任(気持ちが分からない&攻撃的で話が通じない)という、失礼千万な言い方ですが種類が違うモンスターを取り揃えたような世界でした。
夫は理解者でしたが、ちょうど仕事が忙しい時期で。
子供達はともかく、大人達はもっとどうにかならないかと正直、思いました。
人の気持ちを考えること。
人の気持ちに共感すること。
人の気持ちを大事にすること。
一つ前の近況ノートには、私の人生にとっての担任の存在意義は「地震についての勉強」に近いものだったと書きましたが、この担任の存在含め、一年間に起きた様々な困難を通して私が修めなければならなかった一番大きな学びは、これだった気がします。
私は無神経な人達に囲まれて、無神経に育ってしまって。
人の気持ちを尊重する、その方法もろくに知らない状態で長く大人をやってました。
私も残念な大人でした。
この一年間の途中に、私は鬱状態になり読み書きができない状態になってしまったのですが、長期間その状態で苦しんだ後、今年の4月あたりから、再び以前と同様に読める状態にまで回復しました。
頭の中で文字が意味と結びつく、その馴染んだ感覚に歓喜しました。
書くことも再開したいと思って、10年ほど前に書いた『白猫に惑う律動、紅薔薇に捧ぐ輪舞曲』を読み返したら、何だか違和感を感じる部分が沢山あったんです。
ちょうど、問題の先生に対峙した時のような違和感です。
キャラ同士の気持ちのキャッチボールができてない。作者である私のキャラへの寄り添いが不足しているのだと気付いて、大規模修正をかけました。
それが、カクヨムに投稿した白猫紅薔薇です。
リハビリを兼ねた新作として憎まれ皇女アンネリーゼを書きました。
あの災害先生と出会わなければ、多分私は今も人の気持ちをよく考えられないままで、アンネリーゼとエミールの話も生まれなかったと思います。
子供の頃、ある占いの本にありました。
私は『どうしようもない人物からも、何かしらを学び取ってしまう大きな器を持っている』と。
占いが当たってるかどうかはともかく、そうでありたいと思うんです。
苦難を、苦しかった悲しかった悔しかっただけでは終わらせず、自分のために家族のために活かしたい。
転んでもただでは起きない人間でありたい。
そう思えるのは、メンタルが順調に回復したからだと思います。
酸いも甘いも噛み分けて。
噛み砕いて、飲み干して、自分のための栄養にしていきたいです。
芥を択ばぬ大海にはなれなくとも。
さて。
気持ちを切り替えて、また創作を頑張っていきます!
次の物語の世界でも、またお付き合いいただけたら嬉しいです。
不思議と想いが交錯する、そんなお話になる予定です♪