僕の神様

神里光

第1話

 川の土手に座ってカップルの会話に聞き耳を立てていた。暗くなり始めていたけど、四条大橋の人混みがうっすら見えた。寒かったから全然人がいなくて等間隔カップルの間隔がものすごく広かった。でもわざわざ近くに座って話を聞くことにしたんだ。普段ならそんなことしないんだけど、朱里に振られてからずっと精神がまいってたんだ。今日はまだ泣いてないけど、ほとんど毎日泣いていた。学校も近くのスーパーも六畳の部屋ですらも全部あの頃のままでさ、どんなに頑張っても一日に一回はダメになっちゃうんだ。そういう時は膝に力が入らないんだ。内角低めのスライダーを空振りしたみたいな感じで。

そんなんだから僕は酒だけを飲んでた。酒は僕を投げるんだ、現実とか将来とかそういうものが見えなくなるくらいずっと遠くに。アフリカとかインドとか、南米に行ったら同じような気持ちになるんじゃないかな。よくわからないけど。一日でウイスキーの瓶を二本空けたりもしたし、幻聴みたいなものはしょっちゅう聞こえた。喘ぎ声みたいな。家賃三万円の安アパートで壁も薄かったし、“本当に”喘ぎ声が聞こえてる時もあったんだ。喘ぎ声すごいねなんて言って朱里と二人で笑ったこともあるし、喘ぎ声が全然違う日があって浮気してるんだろうなと思ったこともあった。でもそれが時計の針が周ってもずっと聞こえるんだから幻聴だよね。きっとAVの撮影だってそんなに喘がない。無修正のリークなんて外国人なら間違いなく「クレイジーだ」って言うくらい淡々とセックスしてるんだから。「本番いきまーす。3,2,1,アンアン」みたいな感じで。だから幻聴だってのは間違いない。それに全然寝れないってのに嫌な夢ばっかり見てたんだ。一番やばかったのは、今まで会った大人が一人ずつ出てきて僕を怒るやつかな。顔も名前も忘れてた小学生の時の担任とかがさ、あの時からちっとも変わってないとか言って僕を怒鳴るんだよ。じゃんけんで負けたら釘だか針だかを刺されるって夢も見たな。あいこにはなるんだけど、絶対に勝てないんだ。それまでは僕はいつも夢なんか見なかったってのに、うんざりするよ本当に。とにかくそんな状態だから、僕はカップルの会話を聞くなんてことをしたんだ。普通じゃなかったんだ。とは言っても、振られてからは、あの時どうしたらよかったんだろうみたいなことばっかり考えていたし、「ほかのカップルがどういう風に円満に過ごしてるのか」ってのも僕の脳みその中にいる独裁者の一人だった。「死にたい将軍」と「もう無理だよ大臣」と似たような感じだよ。多分。

 僕がイヤーな気分と純粋な好奇心で盗み聞きしていたカップルは見るからに大学生で、僕自身もこんな感じに見えていたのかもしれないと思った。付き合ってるときはそんなこと考えもしなかったんだけど、振られてからはなんか気になっちゃうんだ。男のほうはいっちょ前に高級そうなコートを着てた。でも髪が伸びすぎてて、だらしなく見えた。僕はもっとだらしなかったんだと思うよ、朱里が「長い髪が好きだ」って言ってたのもあったんだけど、それ以前から僕は髪を切るのが嫌いでさ。いくらその人が専門的に勉強したっていっても、赤の他人に刃物を突きつけられてるって思うといい気しないんだ。もしその人が二日酔いだったり、恋人に浮気されたり、大事な人が死んだりして最悪な気分だった時にさ、スパっとやってしまいたくなったりすると思うんだよね。だから僕は二か月に一回も髪を切っていなかったと思うし、この男よりはるかにきたならしかったはずだよ。でも思ってたんだ。「僕は良い彼氏だ」って。なんでなのかはわからないけどさ。いくら僕が毎日二人分のごはんを作ってたっていっても、隣で歩きたくないような見た目だったら意味ないはずなんだけど。そういう事もあって僕はこのカップルの話をよく聞いていたんだ。

 雪は降っていなかったけど、一月末の夕方で、指先の感覚なんてなくて関節だけが痛かった。でもコンビニで買ったミニボトルのウィスキーを飲んでいたこともあって、朱里に振られてから続いている体の芯が震えているような感覚をのぞけば、寒さは感じていなかった。ロシア人がウォッカを飲むみたいな防寒法をしていたと思うし、ロシアに行ったことなんてないからロシアがどのくらい寒いのか僕にはわからないんだけど、これ以上寒くなったら生きていけないなって思うくらい、僕にとっては寒かったんだ。それに、南国育ちの僕にとっては、京都の冬もロシアの冬も、ものすごく寒いという点ではたいして変わらないと思う。

「飲み会の後どうする?俺の家来る?」

「えー、どうしようかな。」

「なんだっけ、あれ、あの韓国のやつ。あぁイカゲームだっけ?あれ見たいって言ってたじゃん。」

「見たいけどさ、好きだったアイドルが出てるんだけど、なんか悪役みたいなんだよね。」

「あっそ。」

男のトーンが下がった。母親が電話を終えた時みたいに。嫉妬したんだろうね。朱里も付き合い始めた頃はそうだったんだけど、相手が芸能人でもなんでも「好き」って言われると嫌な人ってのが世の中に居るんだよ。そんな人は画面の向こう側で、いいところだけを切り取られてる人たちなんだから、それを好きっていうのはバイト先の後輩とか、同じクラスの人とか、そういうのとは全然違うと思うんだけど、とにかくダメな人がいるんだ。良いとか悪いとかじゃなくって、相手がそういう人だってわかったらなるべく言わないようにしたほうがいいってだけの話なんだけど。嫉妬っていうのは向けられた側よりも感情を持ってしまった側がより強い罪悪感を持つ。相手が芸能人でもなんでも。最悪な感情なんじゃないかな。もし九十歳くらいまで嫉妬せずにいられるなら、僕はヤクザを辞める人みたいに小指くらいなら喜んで切ると思うよ、そんなに長く生きたいと思わないけど。小指にも自分の身体にも愛着がないってのもあるんだけど、そのくらい嫌いなんだ。

嫉妬した男は空気が悪くならない中で、最大限間をとってから言葉をつづけたように見えた。

「でもさ、そんな大物ってことは、悪役でも結構長生きすんじゃない?」

どこかあきらめたように力が抜けていて、話しぶりの調子は下がったままだった。こういう時に感情的にならないってことは、この二人はそれなりに長い付き合いがあるんだろう。良くも悪くも。

「それでもなんか嫌じゃん好きな人が悪役ってさ。それにさ、」

今度は女が、俯きながら明らかに長すぎる間を取った。もうこの女は、この男のことが好きじゃないんだろう。僕は直感でそう思った。こういう事に関しては僕の直感はよく当たる。自分と誰かのコミュニケーションじゃ何にもわからないってのに、他人同士が話してることにはものすごく敏感なんだ。小さいころから。だからきっと偶然なんかじゃない。レスになってから振られるまでの期間、朱里はこの女と同じような話し方をしていた。訛りや言葉選びみたいな部分じゃなくて、意見の出し方と間の取り方という意味で。

話の構成がよく似ていたんだと思う。

男は後ろ手に手をついて夜空を見ていたけど、姿勢を正して女のほうに向いた。

「最近色々あって、そういう気分になれないんだよね」

女の言葉を聞いた瞬間、キィと小さな音が鳴って、瓶に爪を立てていたことに気づいた。指先の感覚がなかったから音が鳴ってようやっと気づいたんだ。「最近疲れててさ」あの時の朱里の視線はこの女と同じだったと思う。僕じゃなくて未来を見ていた。計画的な言葉だったんだよ。朱里は僕の何倍も感情的になりやすい性格だったけど、そういうところでは理性的な言葉選びができる人でさ。何から何まで考えて言葉を選んだと思うんだ。

「そっか、発表ももうすぐだし、部活のあれもあるって言ってたしね。」「じゃあ、休み始まるまで見ないでとっとくわ」

僕はきっと、この男のように、朱里が出している「あなたのことはもう好きじゃないけど、今自分から別れを切り出すことはできない」という葛藤に気づけなかったんだろう。もっと早く気づいていればよかったのか、何の心配もしないで一緒にいられる時間が長かったことを喜ぶべきなのかはよくわからない。

だってそうだろう?いずれつらい未来が待ってたとしても、ぬるま湯につかっていられる時間は必要なんじゃないかな。問題なのはぬるま湯はいつか冷め切ってしまうってことでさ、どんどん冷たくなっていっていたのに、僕はそれを認めずに幸福なんて呼んだりしてたんだろうね。あったかいお湯を足す努力もお湯を入れ替える決断も全部先延ばしにしたんだ。

弟と妹がいることもあって、僕は同じような歳の男に比べれば面倒見が良くてさ、付き合ってる期間の大半は僕が家事をしてたんだ。料理も洗濯もゴミ出しも、朱里が入る前に風呂の掃除をしたりもしていた。好きな人だからってだけじゃなくて、朱里みたいなかわいい女の子が僕を必要としてるってだけで、僕が生きていていいような気がしてたんだ。どう考えたってそんなのはまともじゃないんだけど、でも実際にそうだったんだ。朱里は僕に数えきれないほどのお願いをした。「抱きしめてほしい」っていういかにも恋人同士なものも多かったけど、「おやつを買ってきてほしい」とか「明日までにこの服を洗って干しておいてほしい」みたいなものもたくさんあった。僕以外の人にも似たようなお願いをしていたんだと思うけど、僕が一番頼られているんだろうってことが、深い湯船につかっているときのように僕を満たしていた。振られてから何日か経って行った銭湯で、大きな湯船の中の水圧とぬくもりが付き合っていたころに似ているって気がづいてから、陶酔感に浸っていた感覚そのものの思い出に浸るようになった。朱里が僕にしたお願いの数は、僕が朱里にした数の数十倍から百倍くらいだったと思う。数えてみたこともないから間違っているかもしれないけど、大きな差があるのは間違いない。僕は時に高慢だと文句を言いながら、そのほとんどに従いそれを愛情表現だと思い込んでいた。愛情表現の部分はあっただろうけど、それが朱里に伝わっていないなら、愛情表現として成立しえないんじゃないかと今になれば思うよ。そして愛情を与えているという感覚と同時に、「彼女はきっと自分自身のことが大好きだから、お願いを聞いてもらえるのが当然だと思ってるんだ」と見下していた。それが僕自身の問題であると考えもせずに。この主従にも近いゆがんだ関係は、他の人からは奇妙なものに見えたみたいなんだ。実際色んな人に「そこまでやらなくていいのに」ってことは言われたよ。でも僕はそれに満足していた。もしかしたら満足していたどころか、大喜びだったかもしれない。とにかく、そんな他の人の言うことなんて聞こうとも思ってなかった。僕はもともと人の言うことを素直に聞くような人じゃないんだ、良くも悪くもね。

僕は朱里に仕えているような状態でも、それを愛情表現だと考えていたんだ。「だか

ら」なのか「でも」なのかよくわからないけど、僕はもう十分に僕の愛情は伝わってると思ってさ、私のどこが好きなんて質問には「かわいくて巨乳なところ」って照れ隠しをして、少し太っていた時期には痩せる方法ばかりを伝えて、時々太っていることをいじったんだ。朱里が僕のことを嫌いになった理由の一つは、こういうところなんだろうね。与えたいものだけを与え、欲しいものをくれない自分本位なところ。子供のころにゲームが欲しかったのに、全然違うものを買ってこられたような気分になったんじゃないかな。僕は六年生までゲームを買ってもらえなかったし、その後は高校に入るまでスマホを買ってもらえなかった。僕は両親のことをそれなりに尊敬してるけど、これだけは今も許せないんだ。だからそんな親にはなりたくないなんて思ってたんだけど、恋人に同じようなことをしてたんだって思うと、自分のことが嫌いになっちゃうんだよ。別に自分のことなんて好きでもなかったんだけど。

僕はウイスキーを飲み、少し大きな咳をした。タバコはもうとっくにやめてたし、吸ってる時も朱里と喧嘩したときかレポートか何かを書き終わってホッとしてるみたいな時にしか吸ってなかったんだ。今はもう思い出せないくらいどうでもいい言い合いをして、僕がベランダに出て行ってタバコを吸うと、「口臭いから仲直りのチュウは歯磨きしてからね」とか言われてさ。その時も重い咳が出てたんだけど、最近また同じような咳が出始めたんだ。酒ばっかり飲むのも悪いってことなんだろうね。でも正気に戻っちゃうと炭に火をつけかねないんだ。ユニットバスの狭い空間のいろんな所にビニール袋をガムテープで張って密閉して。

「もう時間だし行くか、三条だからこっち側だよな」

と男が僕の咳を合図にしたように立ち上がった。運動会を思い出すくらい、音に合わせた完璧なタイミングだった。なつかしいよね、あのピストルの音と火薬のにおい。

そして二人は去って行った。女は文庫本くらいの大きさのバックを両手で腰の前に持って、男は女の肩に手を回していた。女に触れたくて仕方がない男と、そんなのにもう嫌気がさしちゃってる女ってのが、たかが十分くらい隣で話を聞いてただけの僕にもわかった。彼らはもうドラマを一緒に見ることはないかもしれない。ドラマを一緒に見るってことはソファかなんかでくっついて見るくらいの関係性にならないといけないってのに、あのカップルは喧嘩したわけでもないのにずっと冷めた関係に見えたんだ。占い師だったら「負のオーラが見える」みたいなことを言うんだろう。そう考えれば全部が全部インチキってわけでもなさそうだね。ただの観察眼が鋭い人がそれをスピリチュアルで説明してるって思えばさ。彼らの後姿を見ながらそんなことを思ったんだ。



革ジャンの内ポケット、スマートフォンがバイブした。マッチした相手からのメッセージ。「二分ほど遅れるかもしれないです」地下鉄が今どこを走っているかっていう画像もセットで。次の停車駅どこですって電光掲示板の写真。今日はヤレないなと思った。よくわからないけど、二分遅れるくらいのことを前もってどのくらい遅れるか報告するような人は、初めて会う人とセックスしたりしないと思ったんだ。僕のものすごく狭い人間関係の中は、時間にルーズな奴ばっかりでさ、「ちょっと家に寄っていい?」って言って家に入ってから一時間も出てこないで「ごめん風呂入ってた」って言うようなやつとか、どうせ遅れるからって理由で飲み会を始める時間を「〇月〇日の夜」って時間を指定せずに決めるやつとか。それでも友達にするに値する良い人なんだけど。そんなやつらと比べちゃったのかもしれないし、そうでなかったとしても、仕事でもなんでもないのに、時間に敏感で丁寧な連絡をする人が世の中にいたっていうことに驚いたな。そもそも僕にとっては、この日が初めてマッチングアプリの相手と会う日で、コンドームを財布に入れるほどには、変に興奮していた。性欲が溜まっていたってことじゃなくて、修学旅行か何かで前日にハイになって必要でも何でもない物をたくさんカバンに入れちゃうときみたいなさ、そういう感じでコンドームを財布に入れたんだ。そういうときってたまにあるだろう。でもそういうのが何から何まで恥ずかしくなって、ウイスキーの残りを喉に流し込んで空き瓶を川に向かって投げた。もうう何年も前の話だけど僕は野球をやってたんだ。8番か9番でライトかレフト。要するにヘタクソだった。身体も小さかったし、目も悪かったしね。でも甲子園に出てドラフト一位でプロに行った人からヒット打ったこともあるんだ。瓶は結構離れたところまで飛んで行った。座ったまま投げたけど川の真ん中あたりまでいったんじゃないかな。僕の周りには誰も人がいなかったけれど、川の真ん中で上がった小さな水しぶきは僕の非社会的な行動を咎めるように僕を見ていた。こういうときって何かに見られてるような気がするから僕は好きじゃないんだ。だから人っ子一人いない深夜でもなるべく信号を待つし、一分でも遅れたらごみを出さない。たまには飲んでたコーヒーの缶をコンビニのごみ箱に捨てちゃったりなんかしちゃうんだけど。時間に関してはルーズなんだけどね。

彼女は結局僕よりも早く待ち合わせ場所についていた。二分の遅れを見越して、僕が何回も靴ひもを結びなおしたりミンティアをかみ砕いたりしている間に、彼女は急いで歩いてきたんだと思う。二分の遅れを事前に報告するような人なんだからきっとそうだろう。何かに遅刻することがあったら、「どうせ遅れるんだから」ってゆっくり歩いていく僕とは全然違うんだ。

「初めまして、るなです」

「初めまして土屋です」

お互いに名乗った名前が、本名とは全く関係ないんだろうということが、二人の間で瞬間的にわかって僕らは微笑んだ。なんてったって言いなれてないんだよ名前が。僕なんて下の名前を何にしようかなんて考えていたしね。うまく言えないけど、アイドルになったばっかりの女の子なんかは同じような感じのしゃべり方をするんじゃないかな。

るなと名乗った女は、画像からわかっていた通り、顔は僕の好きな系統で、猫目で口が小さく唇が厚かった。朱里に似てたんだ。でもそんなのがどうだってよくなるくらいに瘦せていた。顔にも首にも手にも肉感がないこともあって不健康そうに見えた。そんな体形は僕の好みと全くの真逆だった。高校生の時に付き合っていた女の子に浮気されてさ、その人が初めての彼女だったんだけどとっても痩せてて、それから僕は痩せてる女の子が怖くなっちゃったんだ。抱けないことを察して落ち込んでいた気持ちが解放された気がして、僕は彼女との時間に集中することができた。とっても失礼なことなんだろうけど、緊張が解けたんだと思う。「別に好みでもないし、どうせ今日飲んだら二度と会わないんだからそんなの気にしなくていいや」ってね。僕にはそういうことが時々あって、なんとなく接点がある人より、もう二度と会わないことが決まってるような人のほうが気楽に話せるんだ。バーで隣に座った人とか、旅先で適当に入ったラーメン屋の親父みたいなさ。逆にこれからちゃんと付き合っていかないといけないような人だと嫌になっちゃうんだな。

だから友達を作るより面接のほうが楽なんだ。

「出身はこっちですか?」

「ちがくて、愛知県なんです。関西弁じゃないでしょ?」「マジですか、この間振られた元カノも愛知出身で、しかも名古屋って言わないってことは三河ですよね?尾張じゃなくて」

「なんかそこまでわかられるの恥ずかしいかも。」

そして僕らは二人で声を出して笑った。るなの笑い声は控えめだったけど、朱里と全く同じ訛りで、画像の透過度を調節しているように、彼女の後ろにうっすらと朱里の姿を感じた。笑い方にも訛りがあるんだよ、本当に。

「土屋さんは出身どちらなんですか?」

「どこやと思いますか?」

僕はビールを一口飲んでから、わざと関西弁っぽいイントネーションで言った。

「んー」

と彼女はこめかみに指先を当てる漫画みたいなジェスチャーをした。傾いた首に従って前髪が流れ、僕は二条城で撮った朱里の写真が同じような角度だったことを思い出した。 たぶん二回生の秋のはじめごろだったと思う。もしかすると夏だったかもしれないけど、夏にしては暑かった記憶がなくてさ。とにかくそのくらいの時期だった。朱里がいつ僕のことを嫌いになり始めたのかわからないけど、きっとまだ僕のことを好きだった頃だと思う。僕と朱里は夜のライトアップされた二条城に入るイベントに行ったんだ。確かチケットの値段は二千円くらいだったけど、僕はバイトもしていなくて結局おごることはできなかった。その頃の僕の金策といえば、酒を減らすこととキャメルというほんの少しだけ安いタバコを吸うことくらいしかなかった。それどころか、チューハイは高いからって理由で安い焼酎をジュースで割っていたこともあった。安い酒も安いタバコも、結局は満足度を下げることで値段を下げてるわけだけど。そんなことをせずにバイトをしていたら、今も僕らの関係は続いていたかもしれない。きっと奨学金をもらって真面目にバイトをしていた朱里から見ても、そうじゃなくても普通にバイトしてるやつから見ても、僕はきっと甘ったれているように見えたんじゃないかな。僕なりに頑張って世界と戦っているつもりだったんだけど、そういうのって自分以外には全く伝わらないだろうし、バイトさえしていれば朱里の食べたいものも行きたい場所も、きっといくつかは願いをかなえられたのかもしれない。

イベントの日は外国人と子供が多くて騒がしかったけど、朱里は好きな屋台飯のおかげか喜んでくれていた。朱里は子供が騒いでるのが嫌いでさ、どうかなと思って心配になったけどずっと楽しそうな顔をしていた。 入場してからは、目が悪いことと朱里が黒い服を着ていたこともあって、僕はしばしば朱里を見失い、そして光に照らされている朱里を見つけるということを繰り返した。それに田舎育ちの僕にとっては人が多すぎたんだ。このとき、僕はイルミネーションというものがあれだけもてはやされている理由を知った。自然ではありえない色に照らされた顔は、陰影によってその目鼻立ちがより強調されていて、何度忘れようとしてもずっと夢に出てくるくらいに僕を虜にしたボディラインは、官能的であると思えなくなるほどに美しく彩られていた。あまりにきれいな彫刻を見ても勃起しないでしょ、あの日の朱里は僕にはそういう風に見えたんだ。帰り道、「きれいだったね。」という朱里の言葉に「ああ」って適当な返事しかすることができなかった。うわのそらってやつだよ。朱里はライトアップされた世界遺産よりずっときれいだったけど、僕にはそれをストレートに伝えられるだけの表現方法がなかった。そういう気持ちをちゃんと伝えられる人になれたらいいんだけど、僕にはきっと無理だと思うな。なんでかわからないけど苦手なんだ。苦手だからってそのままにしておくのはどうかと思うけどさ、きっと普通の人の何倍も苦手なんだと思うな。だから結局僕は帰ってから疲れている朱里を強引に抱いた。その最中には愛してるとか好きとかなんとか言ったと思うんだけど、そういうんじゃダメなんだよ。何でもない休日の昼下がりにさ、僕が朱里の好物のナポリタンか何かを作って、朱里が眠そうな顔でベッドから起きてきて食べ始めたようなときに、「イルミネーション行ったとき朱里のこときれいだなって思った。冬は寒いからいやだけど、ライトアップみたいなのまた行きたいな」みたいに言えたらよかったんだ。そんなことができても朱里は僕のことを嫌いになったかもしれないけど、後悔が一つ減るってことは僕にとっていいことなんじゃないかな。

ああしてたらよかったのかもしれないってのが僕には多すぎるんだ。

「土屋さん、酔っちゃった?」

るなはそう言いながら、僕の頬から顎にかけてのラインを撫でた。その手は、ジョッキについた水滴か何かでうっすら濡れていて、朱里が僕によくやっていたいたずらを思い出させた。付き合ってた時は本気で嫌だったのに、今になるとなんか懐かしいし、あの時なんで嫌だったのかもうよくわからない。

「少し考え事していたさ。ひーじよ。酒強いほうだから。」

「沖縄の人だね。」

るなは脇を締めたガッツポーズをした。

僕は、方言や訛りを朱里以外の人の前では完璧に隠していたんだ。理由は単純でただでさえ人と話さない僕が、訛っていて何を言ってるのかわからなかったら最悪だと思ったんだ。だから大学に合格してからはユーチューブとかで標準語の話し方とか練習してたんだ。にもかかわらずとっさに出てしまった。酔っぱらうほどは酒を飲んでいるわけでもないし、るなは緊張して方言が出てしまうほどの美人ではなかった。少なくとも僕にとっては。だから方言が出ちゃったって気づいたとき、なんかもう、自分に負けたような気がした。ちょっとした失敗とか、バレたくなかった秘密がバレたときの、あの独特な、じんわりくる気まずさが胸の奥からじわっと広がってきた。胃の奥が重たくなって、うっすら上がってきた空気を、ごまかすように拳で口元をおさえたけど、結局、小さく音を立てずに吐き出してしまった。スッと抜ける感じがした。でもそのあと、少しだけ軽くなったような、ちょっと自由になったような気もした。卒業式の気分に似ていた。

「よくわかったね」

「所々イントネーションが変な感じしたし、適当な返事しながら凄いペースで三杯も飲んでるのに全然酔ってる感じしないし、沖縄の人は酒強いっていうからそうかなと思って。」

「なんていうか、頭いいんだね。ずっとしゃべりながらそんなこと観察してるって。」

「でも、こんなに女に抱かれたそうな人と酒飲むくらいには頭悪いよ。」

るなはうつむき加減でそう言った。茶髪だった時期があるのか、蛍光灯の光で前髪が赤っぽく見える。首には肉がなくて皮膚がうすっぺらく張り付いているのがパーカーのフードで強調されているように見える。小鼻の横には小さなほくろがあって、朱里より短いまつげが瞳に影を落としている。僕は彼女が裸になったところを想像してみた。顔つきが似ていて、出身地が同じ女の子。いくら考えても朱里の身体しか思い浮かばない。それに、本当にるなが裸になったとしても朱里の身体にはかなわないと思う。どっちのほうが美しいかとかじゃなくて僕の好みの問題で。だから僕はこの人を抱きたいとは思わなかった。第一、酒を飲んだらそういうのをあんまり考えなくなっちゃう性質なんだよ。

「そういうんじゃないよ。抱きたいなんて思ってないし、酒飲んだらリラックスしちゃってそういう気分にならないしさ。今日はこの後どこのラーメンで締めようかなって感じだよ。僕は。そこのさ、角のところにある店行きたいけど、ネギたっぷりのやつが有名だ

からさ、そんなの食べて帰りのバスがもし満員だったら周りの人嫌だろうなって思って、」

「そうじゃなくて。」

るなは顔を上げて僕の目を見た後、酒を一口飲んだ。

「女に抱かれたそうって言ったの。だってもう、「僕はもう無理です。でも人前、とくに女の子の前ではそんな弱音を吐くわけにはいかないんだ」って顔に書いてあるよ。漫画のモノローグの吹き出しみたいに。私はそんな顔してる人を放っておくなんてことできないよ。有難迷惑かもしれないけど。それにさ、席座って注文してから私のことずっと見てたけど、なんか遠くを見てるような感じだったし、私の話と全然関係ないタイミングで手をぎゅってしたりしてさ、さっきは振られたとか言って笑ってたけど、そういうやり方じゃ傷はいえないと思うよ。」

「じゃあどうしたらいいかな。」

るなの話したことは何一つ間違っていない気がした。そしてそれは別れ話をしたときの朱里と同じだった。

私はこのまま私たちが二人で付き合い続けてもうまくいかないと思ってるし、片方がそんなことを思ってるようなら別れた方がいいと思う。四回生って色々と忙しくなると思うし、私のことを好きでいてくれたってことはありがたいと思うけど、私にはそれに返せるだけの感情がもうないし、感情を取り戻すために何かをできるほどの余裕もないと思う。家事全部やってくれたこととかは本当に助かったし、付き合ってなかったら大学生活も全然違うものになったと思うけど、もう別れるのがお互いのためなんじゃないかな。

るなの後ろに透けていた朱里がより鮮明になった気がした。どこに黒目があるかわかるほどに。

「私もね、夏に彼氏に振られたんだ。別れたのは夏休み始まる直前で、もう少しで付き合って丸二年ってくらいだった。「夏休みは海に行こう」って言って水着買ったりして、頑張って痩せなきゃなんて思ってたんだ。プロテイン買ったりランニングシューズ買ったりしてさ。でも結局期末レポートとかあってまだ何にもできてなかった。そんな時にラインでもう別れようって言われたんだ。せめて電話が良かったな。人って一番最初に忘れるのは声だっていうじゃん、だから最後の最後にはちゃんと声を聴きたかった。それまで私は、私たちは全く問題がないってわけではないけど別れるくらいのことでもないって思ってたんだ。初めての彼氏だったのに、二年目なんてこんなもんだろうって。友達の話なんか聞いてると、私たちよりもっとひどい状態の人もたくさんいたし、デートもセックスもちゃんとあったし、何か大きな喧嘩をしたとかそういうんでもなかった。ただ夏休みが楽しみだなって思ってただけで。最初は酔ってるのかなって思ったけど、メッセージが届いたのは昼間だったし、あの人はだらしない人だったけど昼間からお酒を飲んだりする人じゃなかった。そもそもあの人はお酒は弱くてあんまり飲まなかったんだ。でもギャンブルもタバコもするし、家に行ったら後輩の女の子がいて「制服ディズニーの服が似合ってるかどうか見てほしいって言われてさ」とかつまんない言い訳したりしてて。絶対コスプレしてエッチするつもりだったんだよ。私にはそんな性癖打ち明けもしなかったのに。とにかく今思えばダメ男だったんだけど、そのせいか母性本能で色々やっちゃってさ、家事とかだけじゃなくてデートとかもそんな感じになって。最近食べた物の栄養考えたりしちゃって、今日はラーメンじゃなくてお肉と野菜が取れる鍋にしようなんて言っちゃったりしてさ。セックスのときだけは彼が主導権握ってたんだけど、それも何か可愛くなっちゃってご奉仕?みたいなのやっちゃってさ、母親みたいになって抱けないって言われてさ。」 るなは僕に似た境遇を語りながら、一筋の涙をこぼした。涙は滑らかな肌の上を一直線に小さな口に向かって下った。振られてから泣いてばかりだった僕は、久しぶりに他人が泣いているのを見た。

「別れた後にさ、やっぱり母性本能のぶつけ先?みたいなのがなくてさ、童貞の人わざわざ探してホテル行ったりしたんだけど、それこそ相手が望んでない親切の押し付けみたいな感じがしてさ、嫌になっちゃって。「僕みたいなのとやってくれてありがとうございます」みたいなこと言われてうれしーとか思ってるのも、そんなことで自分の存在意義を確認してるのもなんか気持ち悪いと思ってたんだ。売春のほうがずっと健康的だよね。私の知り合いにも何人かそういう仕事やってる人いるけど、その人たちはみんなもちろん文句は言うんだけど自分の欲しいものをちゃんと手に入れてるからさ。私はよくわからなくなっちゃって。でも土屋さんなら、いいよ。」

「なんで僕はいいの?実は僕がとんでもないヤリチンで性病だってたくさん持ってるのに、セックスしたいからってそういう演技してるだけかもしれないよ。」

「やっぱり男って、性的な目で見られる経験がどうしても少ないからそういうのわからないんだね。なんて言ったらいいのかわからないけど、もっと優しくて話を聞こうとするんだよそういう人は。うわの空でぼーっとしたりしないでさ。それにさ、もし土屋さんのせいで性病になったりしても、助けられなかったって思うよりはずっといいと思うから。」 るなは何かを思い出すように瞳を上に向けた。

時間がまだ早かったこと、平日だったこと、多分そんないろいろなことが重なって、僕らがついたホテルは半分ほどが空室だった。僕はラブホテルに行ったことがなかったから、るなの後をついていくように歩いていた。朱里と付き合っていたころ、服や化粧品を買いに行ったときにこうだったのを思い出す。ああいうのって、女ばっかりってだけでなんか怖いのに何にもわからないものを「どれがいい?」とか聞かれて間違ったこと言っちゃうと機嫌を損ねちゃうからたまったもんじゃないと思う。でも居なくなってみれば、ああいうのも幸せの一部ってことに気づくんだけどさ。そういうのがたくさんあって、僕は普通じゃなくなっていったんだよきっと。

るなは不慣れな僕に配慮したのか、部屋を素早く決め、僕の片腕に胸を押し当てながら甘い声で「たのしみだね。」と言った。行ったことがないけど風俗嬢はきっとこういう声を出すんだろうと思った。良くも悪くも偽物の声で、愛想笑いみたいなものだけど、るなにとっては、僕とセックスする前には必要な言葉なんだろう。そのるなの声は、発声が朱里の声とよく似ていた。でも果たしてそうなのか、エレベーターの扉が閉まる直前に僕はそう思った。朱里の声をちゃんと覚えているのか自信がなかった。覚えていたとしても、それは僕らが終わりに近づいていた時の声で、媚びた甘い声を出していたのはきっともう半年は前だと思う。半年も前、そのうえ僕が真剣に聞いていなかった声を僕は覚えているのか疑わしかった。それなりに酒も飲んだし、朱里とるなが同郷なことも相まって、きっと僕はるなの後ろに見える朱里の色をより鮮やかにしようとしているだけなのかもしれない。部屋に入る直前、僕の前を歩いていたるなは振り向いて正面から僕を抱きしめた。朱里ほどではなかったけど、るなの体には豊かなふくらみがあるような気がした。僕を振る直前から朱里は痩せ始めていたし、今ではこんな感じの抱き心地なのかもしれない。僕がつけていたシドチェーンが額に当たって、るなは冷たいねと笑った。

ベッドを除けば部屋のすべてがピンク色だった。部屋を汚したりするようなアブノーマルなプレイを避けるために、部屋そのものが純粋な性欲の発散を促進しているような気がした。きっと男二人が異常にきれいな車に乗っていたら覆面パトカーだってわかるみたいなものだと思う。セックスのためだけの部屋と余計なものがない覆面パトカーという点では。そんなことを考えながら革ジャンをハンガーにかけた。

「シャワー一緒に入る?」

「うん。」

「自慢じゃないけど、わたしって着やせするタイプなんだよね。」

るなはそう言って服を脱いだ。るなの体はその言葉通り引き締まっていたが、女性的な丸みを帯びていた。贅肉はなかったが、筋張っていたり骨の形がわかるような個所もなかった。少なくとも僕が最初に抱いた印象とは全く異なる体形だった。肌は白く、その中で発色のよい桜色の乳首があり、陰毛は下の肌の色がはっきりとわかるほどに薄かった。きっと美しい体なのだろうと思ったし、少なくともこの体を見て醜いという人はいないだろうとも思った。動物的な本能で勃起したが、抱きたいとは思えなかった。朱里と付き合ってしばらくしてから、時々そういう事があった。挿入したいだとか、射精したいというような欲求がなく、ただ朱里の肌に包まれていたかった。そういう時は、朱里の乳房に顔をうずめて太ももを撫でた。服越しのときもあったし裸のときもあった。朱里を抱きたいのではなく、朱里に抱かれたかったのかもしれない。女を抱くというのはどこかに本能的な攻撃性を伴うもので、そうでない性的な接触という点では、より純粋なものに思えたし朱里の美に陶酔していたような気がする。

るなの後ろに見える朱里の体が、目の前の実体の何倍も愛さなければならない対象に思えて、その乳房に触ろうと手を伸ばした。

「私が脱がせてあげるね」

るなは僕を上半身裸にすると、僕の乳首にキスをした。唇は濡れていて温かく、その上目遣いの表情が朱里に見えた。長いまつ毛とまっすぐな鼻、黒くて太い髪。僕の性器を咥えていた時の朱里と同じだった。

「そんなことしなくていいのに、ありがとう」自分の寝言で起きてしまった時のように、僕の声が聞こえた。るなにも聞こえていたのか幻聴だったのかはよくわからない。るなは臍に唇を当てながらズボンを下ろし、勃起した性器の先がトランクスの薄い生地越しに彼女の鼻に当たった。



「なんかごめんね。」

るなは口の端によだれの泡をつけたまま、僕の性器を撫でた。性器だけに限らず、指先はゆっくりと僕の下腹部全体をなぞっていた。その仕草は癖のようにどこか慣れているように見えたし、謝る必要のないことを謝るのも同じように彼女の癖だろうと思った。彼女の手のひらは汗ばんでいて冷たかったんだけど、性器には彼女の体温がダイレクトに伝わった。それは間違いなく勃起していたし、るなが触っているときも咥えているときも挿入しているときもそれなりの快感があった。でも最後までは至らなかった。達しそうになると朱里の影が見えなくなった。それを何度も繰り返し、るなが三回目の絶頂を迎えて僕たちのセックスは終わった。

「るなは上手だったよ。」

「そうかな?」

「初めてした時からだいぶ研究したんでしょ?そういう話聞いたからじゃなくって、本当に頑張ったんだなって感じがした。」

「うん。私を必要としてるんだから、そのくらいはしないとなって思って。」

るなの声には力感がなく、どこか疲れているような感じを受けた。相手を気持ちよくしようと頑張ると、セックスがスポーツになってしまうという話を思い出した。きっとるなはそうなってしまったんだと思う。

「なんていうか、ちゃんとうまかったよ。」

「土屋くんこそうまかったじゃん。」

「そうかな?前にやったのはいつなのかわからないくらい前だから、ずっと大丈夫かなって思ってた。ずっとレスだったんだ。」

るなは僕の胸に側頭部を載せながら時々僕の乳首に唇を当てた。

「私はもう帰るけど、土屋さんは?」

「僕はもう一軒飲みに行くけど、何も出してないからシャワーしないし先に帰るよ。お金置いとくね。」

るなは僕の胸に頬を押し付けて、ゆっくりと息を吐いた。長いまつ毛が肩に触れた。そのまま、何か言いたそうに口を開きかけたけど、結局、言葉にはしなかった。 言いたかったことはある程度予想がつく。でもるなはそんな言葉を言いたくないはずだ。僕は彼女の母性を求めているわけではなかったし、彼女の母性は僕には何の影響も与えなかったから。僕と朱里の関係と同じで、与えられるものと必要なものが嚙み合っていなかっただけだ。

服を着たり髪の毛を直したりしている間、るなは一言も話さなかったし、彼女の吐息すらも僕には聞こえなかった。

「わかった。またね。」

僕はるなの言葉に返事をしなかった。もう二度と会わない相手に「またね」なんて言葉をかけるのが嫌いなんだ。なんて説明したらいいのかわからないけどさ、嘘をついてるような気がするんだよ。同じような理由で相槌も愛想笑いも嫌いなんだけど、そういうコミュニケーションで誰かが得するならいいけど、誰も得しない嘘なんてつかないほうがいいに決まってるじゃないか。自分のためにも相手のためにもさ。ホテルから出て歩きながら、ちょっと泣いちゃった。るなは僕を癒そうとしてくれたのに、僕はそれをないがしろにしちゃったわけだよ。マッチしてから何回もメッセージをやり取りして、今日だって寒い中わざわざ僕に会いに来てさ、僕におごってもらうわけでもなく酒を飲んで、それでいて僕のことを癒そうってしてくれたんだ。きっと僕のことを心のどこかで心配しながら寒い中帰ってさ、別れた彼氏のことを考えながら寝るんだよ。朝目が覚めたら涙で枕が濡れてたりしてさ。そういうのってとんでもなくかわいそうじゃないか。だからなんかちょっとでも優しい言葉なんかをかけてあげれたらよかったんだけど、僕はそんなことすらもしなかったわけなんだよ。最低なんだ。でも朱里にはもっとひどいことばっかりやってたんだと思うと、いくら謝っても謝り切れないんだ。実際振られてから何回もごめんなさいって列挙したメッセージを送ったりしたけど、そんなんじゃ僕は朱里にも世界にも神様にも許してもらえないような気がするんだ。そういうのが一気に来てさ、ちょっとだけ泣いちゃったんだ。悪いのは僕だけだってのに。今の僕がどんなに辛かったとしてもさ、それは過去の自分が選んだ選択肢の積み重ねの結果なんだ。ゲームみたいにさ。ゲームと違うのはセーブしてやり直したり、セーブデータをいくつも作れたりしないってことだけでさ、残りは全部同じだと思う。僕だけが悪いんだ。自業自得なんだよ。

だからさ、やっぱり酒飲むしかなくなっちゃうんだな。ダメなんだよ、正気に戻っちゃうと。

ホテルから歩いてから適当に入ったバーには僕しか客がいなかった。寒くてもう限界だって思ったところにポツンとあったんだ。それがどこなのかはよくわからない。るなに会う前も、るなに会ってからも、僕はずっと酒を飲んでいたわけだし。今が何時なのかとか信号が青かどうかとかそんなことは何もわからなかった。まっすぐ北に向かって歩くってことだけはできてたけど、家がある今出川まであといくつの通りを超えればいいのかはわからなかった。それにまた防寒用のウイスキーを買ったんだ。そして久しぶりにキャスターホワイトを二箱買ったけど、財布の中には一万円札が四枚あった。それはちゃんと覚えてるんだけど、バーがどこにあったのかはよくわからない。そんなに歩いた気もしないけど、ものすごく長い間歩いていた気もする。よくわからないんだ。朱里と付き合う前に、朱里の部屋で酒飲んだ時もこんな感じだった。僕はもう成人してたけど朱里はまだ未成年でさ、酒飲んで一発やってやるみたいなやつだと思われたくなくて、砂漠の真ん中でのどが渇いたラクダみたいな速さで酒を飲んだんだ。そこから帰るときにさ、電柱にぶつかったりしながら歩いて帰ったんだけど、どんなルートで家まで帰ったのかよくわからないんだ。僕は酔ったら写真を撮る癖があって、どこなのかわからない場所の写真がいっぱいあったんだ、その日は。あの時みたいな感じでバーにたどり着いたんだ。

マスターというべきだろう優しそうな顔をしたドレッドヘアの男は暇そうにしていた。

お客さんは僕だけだったんだ。

「タバコ吸っていいですか?」

「おお、ええよ。俺もカウンターで吸ってええかな?」

「いいですよ」

僕らはこれだけの会話を交わしてあとは黙り込んだ。タバコを吸ったのは半年ぶりくらいだったと思う。お互い特に話したいことがなかっただろうし、僕も話しかけてほしいなんて思っていなかった。そういうのが理解できなくて沈黙を破ろうと話しかけてくる奴が僕は嫌いなんだ。そういう人は大抵「沈黙が気まずい」みたいなことを言うけど、気まずい沈黙を避けるためのうわべだけのつまらない会話の方がよっぽど気まずいんじゃないかな。だから僕らはマスターと客という関係にありがちな会話なんてものはしなかった。顔も体もなかなか良い女と抱き合っても、僕は結局何も変わらなかったんだからこの男には何にもできないに違いなかった。僕はそんなことを考えたりと最後に朱里と二人で飲みに行った時のことを思い出したりしながら、ハイボールを三杯飲んだ。値段の割に香りがよかった。なんかもったいない。なかなかうまいし割といいところにあるのに、なんでこんなに人がいないんだろう。やっぱりビジネス街だから遅い時間になると人来ないのかな。酒出す店って昼にやるわけにはいかないし、夜に人が多いところは家賃も高そうだし大変なのかもしれない。

ナッツの色がわからないくらいの暗がりの中で、スマホが光った。るなからのメッセージだと思う。両親は昼にしか連絡してこないし、もう朱里から連絡が来ることもない。ロック画面を見ると、時刻は一時半を回っていた。

「すみませーん。お店何時までですか?」

僕はここ一週間、いや一か月のうちで多分一番大きい声を出した。なんてたって僕はずっと引きこもってたんだ。バイトのときとかラーメン食べに行くときなんかは外に出てたんだけど、そんなときって別に大声を出す必要ないからさ。バイトは清掃だからしゃべる奴なんていないし、ラーメン屋でもちょっと声張ればいいだけの話だし、僕の好きな店は食券制のところが多いんだ。そんなこともあって、僕は声を出した後に少しせき込んでしまった。朱里は家の中でもどこでも僕がうるさく咳をするのを嫌がっていた。まぁ好きな奴なんていないだろうけどさ。そういう時はちゃんと抑えてよって。でも朱里はおならばっかりしていて、二人で今日は臭いとか臭くないとかよく言っていた。

咳が収まってからしばらくたってもドレッドの男は現れなかった。最後にハイボールを頼んだ時も、注文して僕はすぐトイレに行って、戻ってきたらドレッドの男はいなくてテーブルにグラスが置いてあった。あの時が何時だったのかは知らないけど、ずいぶん長い間あの男を見ていないような気がする。ぼったくりってことはないだろうけど、少し怖くなって新しいタバコに火をつけた。

「すみませーん。どうされました?」

奥から出てきたのはどこか妖艶な雰囲気の女だった。髪を後ろでクリップでまとめていて、体のラインがわかるタイトな白のニットを着ている。巨乳だったらそれで充分エロいんだけど、女の胸はそれほど大きくなかった。ふくらみがあるのがわかる程度。厚化粧をはたいているわけではないけど、薄暗い店の中でも唇の血色がいいのがわかった。声は少しかすれていたが、下品なわけでも媚びているわけでもなかった。

「お店いつまでかなと思いまして」

「お客様が居たい時間まで居てもらっていいですよ。始業時間は決めてますが、終業時間はまちまちなので。それに、生きるのをやめようとしてるような顔していらっしゃいますし。」

「いや、そんなことないですよ」

僕は思わずおうむ返しに返した。考えずに。何も考えずに適当に返事するようなやつは嫌いだし、普段では絶対にしない行動のはずだった。

「全くそんなことない人は、もっと時間かけて答えるはずだよ。居たい時間までってどういうこととか、生きるのをやめようとしてるってなんだとか、色んな事考えるはずだし。それに普通だったら、生きるのをやめるじゃなくて死ぬって言うでしょ?見ててわかるよ。生きるのをやめようとしてるの。この店はなぜか知らないけどそういう客が多くてさ。」

女は落ち着いた口調で話した。僕は珍しく女の顔を見ながら話を聞いていたけど、女は手元のグラスをふきながら話していて、僕のほうを一切見なかった。

「常連さんだったのに急に来なくなった人がいて、二年くらい経って奥さんと一緒に来てさ、鬱で辛いときに毎日来てましたとか、京大のところからわざわざ通ってた学生さんは凄い有名なとこから内定もらったのに、真っ当に生きるのがずっと嫌だったんですって言って戦争中なのにウクライナに行っちゃったし。」

「もしそうだったとして」

女がこちらを向いた。彫が深く瞳の色が薄いような気がする。

「もしそうだったとしたら、僕はどうしたらいいと思いますか」

女は微笑んだ。笑ったではなく、微笑んだというのが正しいようなそんな顔をした。口角が上がったわけでもなく、目が細くなったわけでもえくぼができたわけでもなかった。

でも確かに女は微笑んでいた。

「死にながら生きるっていう手があるわ。」

女はそういうとカウンター裏に消えていった。細いヒールを履いているのかコツコツという音が遠ざかっていく。カウンターにいたときは上半身しか見えなかったが、下は黒っぽいロングスカートをはいているようだった。

女はカウンターに戻ってきたとき、ドレッドとは別の男を伴っていた。黒のスーツに小さな蝶ネクタイをして髪を七三に分けている、いわゆる黒服のような恰好をしていたけど、そのたぐいの人にありがちな反社会的な威圧感と体育会系の奉仕精神のようなものはみじんも感じさせない男だった。女の背が高いのかヒールか何かをはいていたのか知らないが、女よりも頭一個分は背が低かった。それ以外の特徴は全くなかった。どこにでもいそうな顔にどこにでもいそうなしゃべり方。彼にもう一度どこかで会っても僕は全く気付かないと思う。そういう男だ。

「紹介してあげて」

女の声に合わせて男は持ってきた箱を僕の目の前で開けた。焦げ臭いような甘いにおい。米軍基地の町で育った僕には見慣れた迷彩によく似た色。巻きたばこが三本入っている。

「今のところ販売も使用も法律で禁じられていませんので、気にせずにご使用ください。バッドトリップといいますか、興奮したりするような成分ではなく、食欲がほんの少し増したり眠くなったりする程度です。それだけ聞くとアルコールに似ていると思われるかもしれませんが、アルコールと違って興奮することがないので、何倍もリラックスできます。実はアルコールやカフェインは興奮作用が強く、精神的にも身体的にもリラックスするのには適していないんです。海外からの輸入品でこちらと同様のものも多数出回っていますが、輸送コストの関係や市場が小さかった時からの流通品であるため価格は高止まりしています。それに比べこちらは自家製なので値段もこの三本セットで千円でして、非常に安く提供できます。そして心配される方も多いですが、依存性がある成分は一切含まれていませんのでやめようと思えばいつでも辞められます。いわゆる脱法ドラッグとして開発されたものではなく、この店のオーナーが岩倉で経営している療養施設で使用されている医療目的のものになります。その施設の院長先生がオーナーの京大時代の友人でして、開発にもその方がかかわっているので自家製の怪しいものというわけでもありません。ぜひお試しください。」

男は長々と説明して去って行った。

「あの、何で僕なんですか?」

僕はそれなりに長い時間をかけて考えてから、かなり間抜けな質問をした。じっさいには自分では間抜けな質問だってことに気づいてなくて、女の微笑んだ顔を見て気づいたんだけど。

「さっきも話ししたけどさ、」

女はそこまで言ってスカートのポケットに手を突っ込み、僕の目の前にあるタバコと同じような見た目のたばこを取り出して火をつけた。焦げるにおいと甘い匂い。煙はタバコよりもずっと多いけど、タバコほど刺激的な匂いではない。

口から二三回細く煙を吐いた。

「あなたって生きるのをやめようとしてるの。死にたいじゃなくてさ。そこが肝なの。私たちにとってはね。死にたいって思う人は生きるのをやめたい人よりずっとたくさんいるんだけど、その瞬間とか短い期間だけの話だったりする場合が多いの。もちろん死んじゃう人もいるんだけどね。でも死にたいって思ってるのをどうにかするのは赤の他人には難しいわけ。自殺志願者は税金使って東南アジアの田舎とかに送ったらいいんじゃないかと思うけど、とにかくもしあなたが死にたい人だったとしても、「死にたくなくなるまで誰もあなたのことを知らなくて暖かい気候のところで過ごしなさい」としかアドバイスできないの。簡単なことじゃなくて死に近づいてることは間違いないんだけどね。でも生きるのをやめたいって人は、その何倍も死に近づいてると思う。死ぬことに関して長い間色んな事を考えてるはずだよ。家で自殺したら家賃の何割かを一年くらい払わないといけないこととか、自分と同じ理由で自殺している人が一年間で何人いるかとか、葬儀にはどのくらいのお金がかかるのかとか。もちろんそれは、死なないための方法の一つだと思う。死んだら周りの人にこんなに迷惑をかけるってのはね。でもそんなことを何度も何度も考えるうちに、今までこんなにまじめに生きてたんだから最後くらいわがままを言わせてよって思うんだと思う。そのわがままのベクトルを死からまともじゃない生に替えるだけで君の命だけじゃなくて、君の周りの人全員が救われるんだよ。君のことを気にかけてる人が世の中にどのくらいいるのか私にはわからないけど、その人たちが心のどっかに「あの時助けてあげられなかった」って形であなたがいるのと、「あの人今はどこで何してるんだろう」っていうのって全然違うと思わない?」 女はそこまで言って煙草の箱を閉めた。

「あの、仮に今の僕の状態がおっしゃる通りだったとして、僕はどうしたらいいと思いますか。」

僕の声は情けなく鼻声になってしまっていた。こういうのは僕は苦手なんだ。本当に。感情のまましゃべるってことがさ。しゃべるだけじゃなくて聞くのも嫌なんだ。だから僕はカウンセラーみたいなものには絶対になれないと思う。まぁなりたくもないんだけど。

「そうねぇ、今の時代だと盗んだバイクで走り出すわけにもいかないでしょうから、まずは人に迷惑のかからない程度に悪いことをするのがいいんじゃないかしら。」

真冬だというのに、僕は窓を開けて扇風機を付けた。扇風機の羽をきれいに洗ってから仕舞うことにした夏の終わりの僕は、今の僕よりもずっと勤勉だったんだと思う。ちゃんと朝起きていたし、お酒の量もずっと少なかった。今は一日に一回コンビニに行くか出前を取るかなのに、あの時は毎日二人分の食事を作っていたんだから。とんでもないことだと思うよ。朱里には僕をそうさせるだけの何かがあったんだ。「君は僕の太陽」なんて安いフレーズの本質がわかるくらいには、朱里は僕にエネルギーをくれたんだ。

でも今の僕はそのような勤勉さがたいして意味のないことだということを知っている分だけ、あの時より大人になったのかもしれない。飼い猫のカリンのトイレを置いている押入れの下の段に入れていたこともあって、扇風機からの風は獣臭い感じがする。乾かしたとんこつラーメンみたいなにおいだ。暖房はつけっぱなしにしていたし、いつも通りのシドのやつによく似た革ジャンにマフラーまでしていたけど、足先や手先は痛いほどに冷えた。僕は冷え性なんだ。真夏以外だと、気が付いたら足の指がキンキンに冷えてる時があるしね。火をつける前から、部屋には甘ったるい匂いが漂っている。小さい頃祭りなんかで食べた綿あめに似ているような、濃密でどこか焦げ臭い甘さ。カリンが鼻をひくつかせ、毛布の奥へと潜り込んだ。外では雪が降っている。街灯の光を反射して、白い欠片がゆっくりと舞い落ちていた。

ライターの小さな炎がゆらめく。部屋の中で火をつけるのは多分三度目だ。朱里に振られた日、練炭で死ぬのを決めた日にライターが壊れてないかを試したとき。あの時に何で死ねなかったのかはよくわからない。風呂桶の中にコンロを置いて、あったまってきて眠くなった。高山病っていうのはこんな感じだろうって感じに息が苦しくなってきて、頭を強くもまれているような感じがしてやけに心臓の音が大きくなった。ここで目を閉じれば死ねる。死ねばもう苦しまなくて済むって思ったんだ。

僕は大学で専攻するくらいに歴史好きだし、遺書を書いた友達が片手で数え切れるくらいには周りの人に興味がない。だから、どう見積もっても会いたい人は天国にいる人のほうが多かった。いくら天国とはいえ、僕なんかが歴史に名が残ってるような人に会えるかどうかは置いといてさ、その部分においては間違いなく死後の世界は希望だった。

息を吸うとのどの奥が引っかかれたような感じがした。僕は幼いころのクリスマスイブの夜のように、ある種の義務感のようなものをもって目を閉じた。何も考えずに毎日すやすや眠りにつける人にはわからないと思うし、サンタクロースの正体を暴こうとするような人にもやっぱりわからないと思うけど、僕は物心ついた時から寝つきが悪くて、サンタクロースの正体を暴こうとしないくらいには利口な子供だった。僕はそんなことを思い出しながら目を閉じた。走馬灯なんてものは見えなかった。そもそも走馬灯ってのがどういうものなのか僕にはわからないけど、きっと人生のダイジェストみたいなものなんだと思う。僕の人生はダイジェストが作れるほど長くもなく、内容もスカスカだったんだと思う。ダイジェストが作れるくらいの思い出を作るのが生きるってことだとしたら、そんなもののためにこれからずっと朱里がいない人生を生きるなんて嫌だ。死ぬ直前の気持ちを書こうと思ってそばに置いていたノートにそんなことを書いた。風呂場の中は煙でいっぱいでもう死がすぐそばまで来ている。どこか安心したんだ。でも、朝起きたらベッドに寝ていた。カリンがそばで寝ていて暖房までちゃんとついていた。火は消えていて、ドアの周りに貼っていたガムテープが換気扇の風でひらひらしていた。何で死ねなかったのかよくわからないんだ。

先端が赤く染まり、煙がゆっくりと立ちのぼる。タバコの煙よりもずっとゆっくり動いている。僕はためらいなく、それを深く吸い込んだ。喉の奥が熱かった。でも、咳は出なかった。ゆるやかに肺の奥へと煙が沈んでいき、広がっていく感覚があった。視界がわずかに滲んで、手の先が重くなったような感じがする。空気の輪郭がぼやけ、ズームアウトして世界が静かに遠ざかる。吐き出した煙は、ゆらゆらと宙に揺れながら、雪と混ざり合った。どちらが先に消えるのか、まるで競い合っているみたいだった。窓を閉めてから僕はソファに沈み込む。関節が動かないほどに指先が冷えきっていた。でも、その冷たささえも、どこか遠い誰かの出来事のように感じた。チベットのお坊さんとかイヌイットの漁師みたいな。

皮膚の感覚が薄れていく。毛布の中で丸くなっているカリンが、じっと僕を見ていた。彼女の瞳がいつもより深く、黒く見える。体が沈んでいく。重力が反転したみたいに、意識だけがふわりと浮かび上がる。まぶたを閉じると、雪の降る音が聞こえた。実際にはそんな音なんてないはずなのに。小雨より柔らかい音だ。吐息をゆっくりと漏らす。ゆるやかに天井へ昇っていく。ぼんやりと形を変えながら、やがて消えた。何かが動く気がする。けれど、それが現実のものなのか、ただの錯覚なのかは、もうわからない。人生と同じだと思う。本気で心の底から生きていてよかったと思っていた過去が本当にあったものなのか。朱里と過ごした日々に縛られているのは、あの時が楽しかったとかそういうことではなくて、色あせてしまった今に満足できないから過去に色を塗っているだけかもしれない。甘い煙が鼻の穴に入る。焦げ臭いにおいがする。

朱里がいる。

目の前に、確かに。僕が知っている朱里と、まったく同じ姿で。最後に会ったときに着ていた紺のⅤネックのセーターと黒いスキニー。あれから何日も経って伸びたはずの髪もあの日と同じだ。それだけが僕の幻想であることを主張していた。彼女は何も言わない。ただそこにいて、僕を見つめている。表情も変わらない。僕が手を伸ばそうとすると、彼女の輪郭はゆっくりと滲んでいった。

雪のように。煙のように。

外では雪が降っていて、真っ暗な中でも時折白いものが行ったり来たりしているのがうっすらと見えた。カリンは、初めてのにおいに困惑したような顔をしながらも、僕がかけてあげた毛布からは出てこなかった。酷く甘い匂いなのに、甘い味はしなかった。背骨を抜かれたように脱力してその日は久しぶりに深い眠りについた。 朝はまだ雪が降っていたこともあってか、教室の中はどこか湿ったにおいがした。その湿ったにおいは暖房の風に乗って、教室中にまき散らされていて、僕はなんだか乗り物酔いしたみたいな気分になった。僕は飛行機以外の乗り物に乗るとダメなんだ。朱里は女子高出身だったから、「高校生の時は、雨の日になったら靴下を干してた」みたいな話を僕にしてたんだけど、その話を聞いたときは、女子高生の靴下なんてなんかいい匂いがしそうだっておもったけど、実際は今のこの場所みたいなにおいがするんだろうね。残念なことに。

初回の授業に比べればすくないけど、それなりに教室の中は混んでいた。大事な時だけ授業に出る人がたくさんいるんだ。そういう人たちが卑怯なのかうまく立ち回ってるのか僕にはよくわからないけどさ。コンタクトを忘れて目がよく見えない。年末の休みを経て久しぶりにチャイムの音を聞くとこんなに間抜けな音だったのかと思う。机に肘をついていて、目の前にはほくろが見える。三本の毛が生えている。二本は老人のすね毛のように細く色が薄いが、一本は髪の毛かと思うほど太く長い。抜こうとしてもうまくつかめない。爪が伸びているからかもしれない。何度かやってやっときれいにつかめても途中で切れてしまった。切れた毛がノートの上に落ちた。まっすぐ引かれた罫線の中に。一人だけ自由に見える。左から右の流れをさかのぼっている。ゆっくりとうごめいていて、まるで細いミミズみたいだ。目が悪いからそう見えるだけかもしれないけど、僕はあえて目をこすらなかった。目をこすって現実を見るということは、まともじゃない生を否定することのような気がしたんだ。教授が教卓の前で何かを話している。うすら禿げで背が低い男だ。いつも通りつまらない冗談を言って、教室の一部から笑い声が聞こえる。話しているのは期末レポートの課題か何かだと思う。でも声は遠い。水の底で聞いているみたいだ。教科書のページをめくる音と、誰かのペンのカリカリという音だけが異様に大きく響いている。僕の周囲だけが静かで、時間が止まっているような感覚がした。 僕だけがこの教室で自由だった。話も聞かず、隣の人と話すこともなく、スマホゲームに時間を使うわけでもない。僕はそんな風にして生きるのをやめた。昨日も何も食べていない。外では雪が降り始めた。風が弱いのか白いかけらの落ちるスピードが遅い。気温からかんがみてすぐには積もらないはずだ。晴れてはいないけどそこに確かに太陽があるのがわかるくらいの天気。雪はきっとアスファルトについたらただの水になる。遠い空から時間をかけても、地面は簡単に白くできない。だったらいっそ、無意味に地面に落ちなくてもいいと思う。僕はそんなことを考えながら窓の外を見ていた。僕との間に一つ開けて女が座った。髪が長く、甘い香水のにおいがする。彼女は僕に何かを話しかけた。出席番号がどうとかそういう話だと思う。僕には彼女が何を言っているのかわからなかった。高校三年生の夏、静岡駅で中国語で話しかけられた時のことを思い出した。僕から見たその人は日本人の観光客にしか見えなくて、濃い顔で少し日焼けしていた僕はきっと台湾人に見えたんだと思う。お互いにフリーズしてお互いが違う言語を使う人だと認識したあの体験に似ている。彼女がしゃべっていた言葉は僕とは違うものだった。彼女は僕からはまともな答えを得られないことが分かったからか、スマホをいじり始めた。「隣の人に番号聞いたんだけど無視された。最悪なんだけど。誰かこの授業取ってる人いる?」そんなことを書いてるかもしれない。愚痴でも何でも言えばいい。見ず知らずの人に何かを教えてあげる義理はな

い。特に遅刻してきたようなやつには。利他的であることが善で自己中心的であることが悪なら、僕は朱里に振られずに済んだのかもしれない。あるいは行動は利他的でも精神的に自己中心的だったのかもしれないけど、少なくとも僕は朱里の何倍も利他的だったはずだ。利他的であることは必ずしも模範的ではないし、人生は常に模範的である必要はない。それに僕はまともに生きるのをやめた。

終業のチャイムがなった。あいかわらず間抜けな音だった。教室の中にいた学生たちが北朝鮮のマスゲームみたいに一斉に立ち上がった。女はいつの間にかいなくなっていた。学食の混雑を避けるために雪崩のように出口に押しかけている。僕が学食を食べたのはもうずっと前だ。朱里と付き合っていたころ、朱里がまだ僕のことを好きだったころ。僕は僕なりに贅沢をしているつもりで、かけうどんとサバの味噌煮を食べた。朱里が食べていたのは、限定メニューのサーモン丼か何かだった。そしていつも通り、途中でおなかいっぱいになって僕が残っているコメを食べた。「ありがとう」と言ったのかは覚えていないけど、朱里は笑っていた。教室の混雑が収まってから、外に出ると雪がぱらついていた。地面に落ちて一瞬で溶けるのを繰り返している。革ジャンの肩でも同じように。学食の前にはいつも通り大行列ができている。今にも土砂降りになりそうな灰色の空の下で、まばらに傘をさしている人がいる。きっと傘をさすのかどうか迷うくらいの雪なんだと思う。この感覚は朱里と僕では全く違った。僕は傘を差さなかったし、朱里は僕が気付かないくらいの雨でも傘を差した。そんな小さな感覚のずれが関係の終わりにつながったのかもしれない。でも、そんなことをいちいちすり合わせようと思わないくらい、僕と朱里はお互いに無関心だったんだと思う。でもそれは自分が相手のことを好きなのと同じように相手も自分のことが好きだという確信があったからで、決して悪いことではなかったはずだ。朱里と付き合う前、僕は二人の女の子と寝た。もちろん一人目のことはものすごく覚えているけど、二人目のことは全然覚えていない。一夜限りだったってこともあるんだろうけど、何かとっても失礼な気がするんだ。愛してたかどうかみたいな感情を抜きにしてさ、やった行為は二人とも同じようなものなのに、記憶の濃度が全然違うってことが。もし君に兄や姉がいたりして、お母さんが「あなたが生まれた時のことはよく覚えてない。だって初めての出産じゃなかったんだから」なんて言ったら、とんでもなく嫌な気持ちになると思うんだ。僕がこれから何人の女の子と寝ることになるのかはわからない。もしかすると僕は朱里だけじゃなくて世界中の女の子に嫌われていて、僕に抱かれたいなんて人は一人もいないかもしれないし、るなの時みたいに僕はもう一生そういうことに乗り気になれないかもしれない。もちろん何かで成功したりなんかして、大昔の王様みたいに数えきれないくらいの女の子を相手にするかもしれないけど、そうなったらきっと朱里のことも何番目の女の子なのかわからないくらいの存在になってしまうと思うんだ。それってきっとものすごく失礼なことだと思うんだよ。僕のことを好きだって言ってくれた朱里に対してもそうだし、朱里のことを本気で好きだったあの時の自分に対しても。まともじゃなく生きるってことは、今一番戻りたいと思っている過去をずっと遠いものにしてしまうってことだろう。それだけじゃなくて今までそれなりに頑張ってきた僕自身を否定するってことにもなっちゃう。受験生の時の僕や部活をやっていた僕、そういうのに全部謝らないといけないんだ。きっと土下座なんかじゃ許してくれないと思うな。僕は僕にやさしくないし、僕が優しくするのは観光客と子供と外国人だけなんだ。だって彼らは、僕を僕個人じゃなくて僕を何かの代表だと思っちゃうわけだからさ。朱里が留学するときに駅で困ってた外国人に空港までの特急の切符を買ってあげたりしたけど、そういう時はなんか気張っちゃう性格なんだ、僕は。

白い煙で目が痛い。僕はもう一度朱里あての遺書を読んだ。なんか読みたくなったんだなんとなくさ。

「幸せにできなくてごめんなさい」「傷つけてしまってごめんなさい」「僕みたいな人間があなたの大切な三年間という時間を奪ってしまってごめんなさい」「別れた後も何度も何度も復縁を迫ったりしてごめんなさい」そんなのばっかりだった。A4三枚の中にごめんなさいっていう言葉が二十三回も出てきた。僕はあんまり反射的に謝ったりしないから、本当に悪いと思ってたんだ。そして最後にはこう書いていた。

「僕の死は第一発見者になるはずの朱里にどうしようもないくらいの迷惑をかけると思います。ごめんなさいという言葉でも丸坊主で土下座しても、全然伝わらないくらいの僕の罪を最大限謝るには命を差し出すのが一番だと思うから。ごめんね。」

呼吸が浅くなってきた。深く息が吸えないんだ。そんなことは高校のマラソン大会以来だと思う。冬の雨の日に海沿いを走らされたんだ。初めてタバコを吸った時だってもっと息を吸えたはずだ。目が開けられなくなってきた。朱里は僕の遺書を読んでくれるのかな。

内側から隙間をガムテープで止めた扉を開けるにはそれなりの力がいると思うけど、炭が燃えたにおいがする部屋を放っておくわけにもいかないだろうし、頑張って開けるんだろう。僕は朱里から誕生日プレゼントでもらったナイキのスニーカーをはいて、紺色のTシャツを着て倒れている。朱里と祇園祭に行ったときにお揃いで着ていったやつだよ。覚えてるかな。シドチェーンと革ジャンは朱里と別れてから買ったやつだけど、似合ってるって思ってくれたらうれしいな。朱里を沖縄に連れて行こうと思ってためてたお金で買ったんだ。沖縄行きたかったな。夏には北部に新しいテーマパークができるんだ。そういう人が多そうなのは僕は苦手だけどさ、朱里と一緒に行ったらきっと楽しいんだと思うよ。ホテルで水着に着替えて近くの海まで歩きながら「なんか恥ずかしいね」なんて言って笑ったりしてさ。ここで倒れた後、あの朱里と出会った入学式の日に戻ったりなんかしたらいいな。あの時は二人ともマスクしてて顔はよくわからなかったけど、すごいかわいいなって思ったのを今でも覚えてるよ。そうなったらさ、今度はちゃんと幸せにするから。

僕は初めて目をつぶったまま泣き続けた。最近はずっと酒しか飲んでいないからか、涙の塩分濃度がものすごく濃い気がする。目にすごくしみるんだ。手探りでビールを探して飲んだ。もうぬるくなっている。二十歳の誕生日に父親が買ってきてくれたものがコレと同じ銘柄だった。

悪いことしたな。もし覚えてて、息子に初めて飲ませたビールが息子が最後に飲んだビールだって気づいたら、とんでもなく悲しくなると思うんだ。僕だって朱里がいなくなってからはとんでもなく悲しかった。いじめられてもいないのに学校に行ったら涙が止まらなくて、せっかく朝起きたのに教室に行かずに帰ったことだってあった。僕にとっての朱里と父親にとっての僕がどのくらい違うのかはわからないけどさ、同じくらい悲しくなっちゃうんじゃないかな。朱里が置いていったものが僕の部屋にまだたくさんあるのと同じように実家には僕の置いていったものがたくさんあるわけだし、時間だけで言えば朱里との時間の何倍もの時間を一緒の家で暮らしてたわけだし。外国人じゃないから、彼とはキスもハグもしたことないけど、そういうのって結構つらいんじゃないかな。それに僕と違って、彼には逃げ場所がないんだよ。弟や妹のためにも働かないといけないし、出勤途中にハンドル握りながら涙が止まらなくなったとしても会社に行くのをやめるわけにはいかないわけだしさ。僕はあまりに申し訳なくなって浴槽に背中を当てて座った。それまでは床に突っ伏していたんだ。ほとんど掃除してない浴室の床に。体育座りってやつは久しぶりにやった気がする。たぶん高校三年生の十二月くらいじゃないかな最後にやったのは。

ビールの缶を傾けるともう空だった。僕は母親に書いた遺書の中身を思い出そうとした。手元になかったし、目がもう開けなかったからね。振られてから酒ばっかり飲んでたからか、一ケースのビールを全部飲んでしまった後でも頭はちゃんとしていた。

母親あての遺書はA4半分にもいかないくらい短くて、大体四つのことを書いていた。一つがここまで育ててくれたのにごめんねってことで、あとは今着てるお気に入りの服のまま葬式に出たいこと、カリンは朱里の田舎のおばあちゃんちに引き取ってもらってのびのび暮らせるようにしてほしいこと、最後に朱里を責めないでほしいこと。こんなにたくさんのことを一度にお願いするのはもしかしたら初めてなんじゃないかな。僕は小学生の時にゲームを買ってもらえなかったときから、ほとんどお願いなんかしなかったから。何かを頼むってことに関してある程度絶望してたんだ。特に母親にはね。これを読んだらきっと母親は泣くはずだし、これを読む前にすでに泣いてるのは間違いない。だってなんかあったらすぐ泣いちゃう人なんだから。甲子園でちょっといい試合があったら泣いてるし、学校から帰ってきたら洗濯物をたたみながら安っぽいサスペンスを見て泣いていることもあった。だから別に泣くのはいいんだ。でもさ、こんなのお願いしたのが初めてだってことに気づいちゃったら、もう大変なことになるんじゃないかな。本当に死ぬまで後悔するくらいのさ。そういうのってものすごくかわいそうだし、僕のせいでそうなっちゃうってのが嫌なんだ。僕はまだ母親に対して好きだとか愛してるとか言えるほど大人じゃないけど、僕が今死に向かって歩き出すことを決めちゃったらそれを一生背負うことになる母親の気持ちが想像できないくらいの子供じゃない。


もういいやと思った。僕は一か月くらいかけてちゃんと考えて遺書を書いたんだ。もちろんお酒しか飲んでなかった時期だからまともな文章じゃなかったかもしれないけどさ、それでも今まで人生で書いたどんな文章よりもちゃんと考えたんだ。受験とか就活なんかで書く文章なんか目じゃないくらいにさ。でも問題は文章じゃなくて中身、僕の人生だったんだよ。ごめんなさいってばっかりでさ、たくさん謝って死ぬなんてなんかちょっと情けないじゃないか。ちゃんとその罪をどっかで償ってさ、ありがとうって言って死ねるような、もっと良い遺書を書けるようにしたいと思ったんだ。朱里を幸せにすることはできなかったけど、朱里と一緒に過ごしたときに朱里からたくさん学んだことで、世界のだれかを幸せにすることが僕にできる償いだと思うよ。

シャワーで水をかけると火はあっけなく消えたけど、ドアはなかなか開かなかった。ちゃんと息ができなくて力が入らなかったからかもしれないけど、僕はそれだけの固い意志で死のうとしたんだと思うな。僕は何かをやると決めたら、ちゃんと計画を立ててやる人だからね。何日も何日もかけてちゃんと準備したんだ。ガムテープを貼るだけじゃなくてビニール袋なんかを使ってちゃんと空気が通らないようにしたし、僕の身体が腐ったりなんかしないように、明日の夜からカリンの面倒を見てほしいって朱里に連絡もしてポストにはカギを入れておいた。両親と朱里のお母さんあての遺書は目立つように冷蔵庫に貼って、部屋の掃除はしなかったけど生ごみは捨てておいた。

でもさ、そんな決意って簡単に揺らいじゃうんだ。僕が死んだ後に嫌な気持ちになる人がいるなんて思ってね。その人たちが悲しまないようにするために生きようとするってのも主体性を欠いた決心に思えるけど、その人たちが悲しむのに死のうとするってのはどうもね。

同じ学校に通っているわけだから朱里をどこかで見かけるかもしれないし、夢に出てきたりもするかもしれない。そういう時は、今日はいい日だったなって思って、酒屋にしか置いてないようなちょっといいウイスキーなんかを買ったりしてさ、朝起きたらよくわからないものをアマゾンで買ってたりするんだ。朱里と仲良かった頃には戻りたいけどさ、そんな小っちゃな幸せのために生きるのも悪くないんじゃないかな。

朱里との過去に戻れるのは夢の中だけだろうけど、僕は残念なことに夢を全然見ないんだ。小さい頃は映画を選ぶみたいに夢を選べた時もあったけど、今はもうできなくなっちゃったし。だからめったに戻れないんだ、あの頃には。生きていくってことは朱里のことをどんどん過去にしていくってことになる。とっても悲しいことだよ。ほかの人と付き合ったりしたら、朱里は人生で二番目に付き合った彼女ってだけになっちゃうんだから。僕の朱里に対する気持ちも、朱里と過ごした思い出も、二番目に付き合った女の子にして片付けるにはあまりにも重いんだ。

でもきっとこれからも何度か恋愛をするんだと思う。朱里のことを好きになったのも僕のひとめぼれが原因だし、ずーっと引きこもって暮らしたりしない限りどっかで誰かのことを好きになっちゃうと思うんだ。明日朝になったら死んでたり、ごみを出すときなんかに寝ぼけながら道を渡って車にひかれて死んだりしなければ。でもそういったリスクは誰にでもあるものだし、そんなことばっかり考えて生きるのはものすごく不自由だ。だってそんなものはどこにだってあるんだから。小学校の時仲が良かったやつで、遊びの約束なんかをすると必ず「できたらね」っていう返事をするやつがいてさ、そいつ曰く「いつ死ぬかわからないんだから必ずなんてないんだ」って。それもそうだ。好きなアイドルがいきなり卒業したり、いろいろ頑張って入った会社が倒産したりするかもしれない。世界にはどんな可能性だってある。隕石が衝突した日、恐竜たちはそれまでのんびりと暮らしていたはずだし、それは悲観的に見ればものすごく残酷なことで、世界は残酷以外の何物でもない。でも、なんとなく買った宝くじが当たるかもしれないんだ。そんな大きなことじゃなくても、たまたま買った本が面白かったり、隣に巨乳のかわいい子が引っ越してきたり、そんな小さな希望はどこにだってあるはずだ。すべてのものは完璧ではない。美味しいものは体に悪かったり、楽しいものには中毒性があったりする。でも逆に、全くダメなものだってない。君が何一つ面白くないと思った小説だって僕が読んだら感動するかもしれないし、学校で嫌われている先生は家庭ではいいお父さんかもしれない。全てのものには絶望があり、全てのものには希望がある。もちろん希望だけを見て生きていくのはあまりに楽観的だ。絶望だけを見て生きるのがあまりに悲観的であるのと同じように。希望と絶望のどちらを見るのかを決めるのは僕自身だし、人生を左右するのは行動でもお金でも神様でもなく、認識だと思う。今のところ人生で最も死に近づいたあの日に思った「もっと良い遺書を書けるような人生にしたい」っていうのは、そういうことなんじゃないかな。雑草を愛でるようになれば、世界は少し美しくなる。

僕の神様になれるのは僕だけだ。やっとそれに気づいたよ。ありがとう朱里。


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僕の神様 神里光 @hikarusatonaka

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