第10話
母は私が家に帰ってくると、青ざめひきつった顔で、私の体をくるくる回しながら、犯罪の証拠の返り血がついていないか、隅々まで目を配った。しかし、血がないとわかると、私の肩からトートバックを奪い取り、中身の包丁を確認した。そこに血が付いていないとみると、母はほっと落ち着いて、しかし、包丁は血を洗い流したのではないかという不安から、
「やったの?」
とずいぶん間抜けな質問をした。
「ううん」
私は首を横に振った。ただにやにや笑って、あと一歩だったとは言わないことにして、靴を脱ぎ、階段を駆け上がった。
自分の部屋の中に入ると、私はベッドに潜り込み、頭から布団をかぶって、震えていた。自分のしたことが恐ろしかった。目標は外れたが、もしかしたら当たっていたかもしれない。しかし、あの子供の怯えた顔を見て、満足するような気分の良さも感じていた。
あんなことをしたのだ。危険なことを。子供は母親に言うだろう。そしたら、警察を呼んで、私を捕まえるだろうか。いや、そんなことできっこない。あの家族は私に負い目を感じているのだから、このくらいの脅しで騒がれるはずがないのだ。もし、騒いだらそれは、実に非常識ではないか。自分たちはもっと酷いことをしているのだし。
私はそんなことを考え、罪悪感やら、このあと起こるかもしれないいざこざから、逃れるように、相手の感情を都合よく想像してみる。
「謝るものですか。私は殺してもよかったのだ。もし、何か文句を言ってきたら、今度こそ本当に殺そうか……」
兄だったならば、私を止めるだろう。私の考えが間違っていると、優しく指摘し、マレを好きなのだから、彼女に優しくしてくれと言うだろう。
そんなことを考えると、私は兄の優しさに涙がでる思いだった。
不安と興奮に、私は熱を出したときみたいにぐったりしていた。ここまで未来を恐ろしく感じたことはない。今にも警察がくるのでは。罪を働くことにかっとなっている時には抵抗がないのに、犯してしまった自分の罪を他人から責められるのは嫌で仕方ない。私は誰よりも善人になりたかったのかもしれない。それだからその道を外れたことに強い罪悪感を持ったのだ。
「謝りに行くこと? そんなこと考えられないわ。あの人たちに頭を下げるくらいなら死んだ方がまし。もう会いに行かない。必要以上に接触しない。それでいい。もう十分。十分脅したわ。怯えればいいわ。いつでも殺せるんですと、私の気分で、人生がめちゃくちゃになると不安に眠れなくなればいいのよ!」
有頂天が私の頭を水の中の塩のように辛く溶かしていた。私は罪にイかれ、震えていた。
「何が私を悪人にしたてあげたの? それは悲劇だわね。復讐が私を鬼にしたのよ!」
むずむずするような嫌な気持ちから逃れたくて、自分を弁解してみる。根っからの悪人じゃないのだ。ついかっとなって、我を忘れたのだ。私だって優しく穏やかな愛に満ちた日々があったのだ。
それでも、世間様が自分の浅ましい行いを見たら何というだろう。私は吐くほどに汚らしい人間だ。兄のように純粋で汚れのない人間になれたらどんなにいいだろう。私は、自分に腹を立て、憎しみがこみ上げてきた。いっそ汚い物を全て背負い込んで、罪諸共この世界から消えてしまいたいとすら思った。私は自分が汚れたのを強く感じた。それだから太陽と月のように美しい兄の心を私とはかけ離れた何かのように遠いものに思った。それが私を苦しめた。人である以上良い人間でありたいじゃないか。人から尊敬され愛され、なんら謝罪すべき過去のない……。
兄のようになりたい。
純粋で、無垢で、汚れのない、美しく素直な人に。
だけど、私は兄と違うのだ。兄を愛すれば愛するほど、私は復讐に燃え、浅ましく、汚らわしい心になっていく。
怒りや憎しみが私の胸や頭を燃やし、精神が狂っていくのを感じる。
もはや、私は獣のように、残酷に牙を剥いている。私は狼のように唸り、布団の中で何度も寝返りを打ち、ぐちゃぐちゃになった布団とシーツを足で蹴り上げる。
ぽつぽつと雨が降り出した。窓を打つその音に、私はベッドから起きて、窓辺に近寄り、窓を開けた。風と滴が私の頬を打つ。濡れた道路の匂いがする。灰色の雲がぎっしりと空を覆っていた。
私は窓を閉め、ベッドに腰掛け、両手で頭を抱え、背を丸めた。
雨の音が激しくなる。私の嗚咽がかき消される。
ふいに私は顔を上げ、思い詰めた顔で、部屋のドアを見つめる。出ていこうかどうか考えていた。そして、出ることにした。私は、部屋を走り出ると、隣の兄の部屋に入った。薄暗いそこの電気をつけ、持ち主の生きているときのままのその雑然とした部屋を見回し、机の上に兄の眼鏡を見つけると、私は縋るような気持ちでそれをとって、透明なガラスをのぞき込む。兄の世界がそこに広がっているようでいとおしい。私は静かに眼鏡を元の場所に戻すと、そっと机を撫でた。のどの奥につきりと痛みを感じて、堅い唾を飲み込む。
「あの女は反省していないのよ。まったく。お兄ちゃんはあんな女のどこが良かったの。本当に一家そろってろくでなしだったわ。母親も聖人ぶってて鼻につくし、子供だって生意気で。あの女本人は口答えするのよ。そして、あの女の夫が、お兄ちゃんを殺したあの男だっていうじゃない。恐ろしいったらない。何よりも、犯罪者同士の愛の結晶が出来ているのが気味悪いわ。男の子。将来は親の意志を継ぐのでしょうね。被害者ぶって嫌な子だったわ。人として最悪な人間が、私たちの敵なのよ。最悪な人間は、優しい人間に目を付けるのね。そして、とことん食い物にするのよ。関わってこないでほしいわ。でもね、お兄ちゃん。私お兄ちゃんの心に習って、あいつらを許そうかとも思うの。お兄ちゃんはマレと過ごしている間、幸せだったんでしょう。それは殺される時も変わらなかったの? 最後の最後で恨んだりしなかった? 私はこう思うの。お兄ちゃんの性格から、恨んだりはきっとしないって。感謝するだろうって。好きな子が他の男のものになっても、お兄ちゃんは、今までありがとうって、笑って言うんでしょう。人を恨んだりせず、ただまっすぐ愛するのがお兄ちゃんだったものね」
兄を思い出し、私は両手に顔を埋め、立ったまま泣いた。ひとしきり泣くと、私は、涙を指で払って、兄の部屋をもう一度見渡した。この部屋にいるかぎり、兄の強い匂いを感じた。彼はまだ生きていて、少し外に出かけているだけのような気がした。しばらくしたら帰ってくるような気がした。
私はそっと部屋を出て、後ろ手にドアを閉めた。
――完――
彼は純粋だから 宝飯霞 @hoikasumi
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