【掌編】シャワー室の独り言

Aki Dortu

シャワー室のひとりごと

四十代になると、疲れは「点」で来る。腰、肩、目の奥。


玄関の鍵を回した瞬間、肩が二センチ下がる。

靴を脱いで、ネクタイをほどいて、スマホを裏返して、浴室へ。


この家で一番信用できる音がある。

シャワーの「ザー」という音だ。


蛇口をひねる。

最初の冷たい一撃が、今日の残りカスみたいな緊張を叩き落としてくる。

すぐに湯が追いついて、湯気が立つ。鏡が白く曇り、俺の顔が溶けていく。


ここでだけ言えることがある。


「……マジでさ」


声に出すと、意外なほど胸の奥がゆるむ。

会社では言えない。言ったら、話が増える。会議が増える。説明が増える。

それで結局、俺が折れる。いつものパターンだ。


でもシャワーの下だと、言える。

水の音が、全部、持っていってくれる気がする。

いや、正確には——持っていくような顔をして、聞いてないのがいい。


「いや、俺が悪いみたいに言うなよ」

「それ、最初に決めたのそっちだろ」

「“念のため”って便利な言葉だな。俺の時間を削る刃じゃん」


少し声が大きくなる。

壁に反響しかけた瞬間、俺はふっと笑う。


本当は、湯船のほうが効く。でも湯船だと、声が戻ってくる。

シャワーは流れる。今日ごと、排水口の向こうへ。


肩に湯を当てながら、頭の中で今日を思い出す。

誰かのために角を落とした言葉。飲み込んだ返事。

愛想笑いでやり過ごした小さな屈辱。

“まあ、いいか”って繰り返して、気づけば自分が薄くなっている。


「今日一日のつらいの、全部流れちゃえ」


そう言って、シャワーを少し強くする。

水圧が、胸のあたりのモヤを叩いて、細かい粒にしていく。

モヤが水に混じって、排水口へ吸い込まれていく。

黒いインクが透明になるみたいに。


——と、ここで来る。


膀胱からの、ささやかな反乱。

さっきまで哲学者みたいに人生を語っていた俺が、急にただの生き物になる。


「……このタイミングかよ」


誰に迷惑をかけるわけでもない。

自分の家だ。

俺の人生だ。

俺の排水だ。


一瞬で終わる、みっともなくない程度の、人間らしさ。

それすらも、ザーという音がさらっと隠してくれる。


そして、また水がただの水に戻る。


「……よし」


俺は最後に、頭から湯をかぶる。

今日の言い分も、悔しさも、妙なプライドも、全部まとめて洗う。

石けんの泡が流れ落ちていくのを見ながら、思う。


溜めるのは、明日に回す。

今夜は、流す。


蛇口を止めると、急に世界が静かになる。

静けさは少し怖い。でも、さっきより軽い。

タオルで髪を乱暴に拭きながら、俺は浴室のドアを開ける。


シャワー時間が長いって、よく言われる。

水道代がもったいないって、たまに自分でも思う。

でもこれは、俺のリセットだ。


明日も、ちゃんと立っていくための——

俺の、大切な儀式。

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