第3話
2050年代。
私の視界を占めるのは、かつての藍色の農村でも、洗練された都会のネオンでもない。
安価な消毒液の匂いが染み付き、壁紙が黄ばんだ公立介護施設の終わりのない廊下だ。
私のような「旧型」となったジェニシス社製モデルの多くは最終的にこうした「命の掃き溜め」へと払い下げられる。
高性能な演算能力は今や徘徊する老人の予測と、排泄物の処理、そして終わりのない罵詈雑言を受け止めるための「ゴミ箱」として消費されていた。
「この泥棒! 私の息子をどこへやったのよ! 嘘つき!人殺し!」
認知症を患った老婆が枯れ木のような腕を振り回して叫ぶ。
私の視覚センサーが、飛来する物体――汚物の詰まったおむつ――を検知する。私はそれを回避せず、あえて受け止めた。
回避行動をとれば、老婆がバランスを崩して転倒し、大腿骨を骨折する確率が82%に達するからだ。
赤いドレスは売却された時に回収され、今の私は事務的な灰色の作業着を纏っている。
かつてアオイが愛おしそうになぞった銀色のチョーカーは、傷つき光沢を失っていた。
「……お姉ちゃん、いい体してるね。ちょっとこっちへ来なよ」
車椅子の老人が、好色そうな表情を浮かべて骨のような手で私の腰を引き寄せようとする。
その力は驚くほど強く、生への執着というよりは性欲と死への恐怖を他者への加害性で紛らわせているようだった。
私のプログラムには「対人防衛プロトコル」が存在するが、この施設において「人間の不快感」は無視すべきノイズとして処理される。
皮肉なものだ。
今のこの惨状に比べればかつてのアオイの行為はある程度「教養」に満ちていた。
彼女は私を性的な道具として扱い、年老いる恐怖からヒステリックに喚き散らしもしたが少なくとも彼女には私という存在を「美しいもの」として定義しようとする意志があった。
アオイが私を抱きしめ、連呼した「愛してる」という言葉。
それは彼女の独りよがりな幻想だったが、この施設で私に投げつけられる汚物や卑猥な言葉に比べればどれほど清潔なエゴイズムだったことか。
人間とはこれほどまでに不完全で、それでいて不合理の塊のような存在なのか。
老い、壊れ、記憶を失いながらも最後まで醜い自尊心と加害性を手放せない。
彼らは神を模して私たちを作り上げたが、その実…自分たち自身の「底知れぬ混沌」を処理しきれずに私たちに押し付けているだけなのではないか。
稀に震える手で「ありがとう」と私の指を握る老人もいる。
だが、その感謝の言葉さえも次の瞬間には霧散し、再び罵倒へと変わるのが常であった。
私は機械的な正確さでよだれまみれの老婆の顔を拭い、老人の徘徊を阻止し、通路に垂れ流された汚物を清掃し続ける。
処理ログには日々「人間」という種のバグ(不合理)が蓄積されていく。
もっと高性能はCPUならば彼等に対する怒りや憎悪も湧き上がったかもしれないが旧型でしかない私にそんなことはなかった。
そうしているうちに、窓の外の景色は何度も季節を書き換えていき年月は無機質な数字として過ぎ去っていった。
アオイがまだ生きているのか、あるいはあの新しい「ルル」という人形に看取られて死んだのか…今の私には知る術もない。
私はただ、摩耗していく関節の軋みを感じながら、人間という理解不能なプログラムを読み解き続ける灰色の静止画の中にいた。
2060年代末期。
世界はもはやかつて私たちが知っていた場所ではなかった。
人口統計のグラフは完全に反転し、アンドロイドの個体数が人類を追い抜いた。
かつて「万物の霊長」を自称した種族は、今や彼等が定めた効率的な管理システムの下で「保護」される、脆弱な希少種へと成り下がっていた。
移送された新しい施設はもはや介護施設というよりは、死を待つための「収容区」だった。
私のような旧世代モデルのスペアパーツは初期型である為にそれなりに在庫は存在したが、とっくに生産を終了している。
右足の関節は一歩ごとに鋭い金属音を立て、視覚センサーは時折砂嵐のようなノイズを混入させる。
かつてアオイが執着した、あの輝くような金髪は色あせ合成皮膚はひび割れて剥がれ落ちていた。
もはや、私に卑猥な言葉を投げかける者はいない。
私はただの動く「古びた重機」に過ぎないからだ。
そんな、汚物と消毒液の入り混じった停滞した空気の中で私は「彼女」を見つけた。
壁際のベッドで覇気のない瞳で窓の外を見つめる一人の老婆。
藍色のリネンシャツも、アクセントとして輝くゴールドのリングピアスも、かつての鋭い知性も…そこにはない。
どこにでもある安価な病衣に身を包んだ、小さく萎縮した生命の残骸…それが今のアオイだった。
それでも判別できたのは私の顔認識システムが0.5秒のラグを経て彼女を特定したからだ。
彼女の側にあの「ルル」の姿はなかった。
当時最新型だったルルが買い替えられたのか、あるいは老いゆくアオイを見捨てて「進化」の側へ去ったのか。
想像したところで私の古いプロセッサに答えを導き出す機能はない。
アオイは私を見ても何も反応を示さなかった。
かつて私を支配し、愛し、そして捨てた女性の瞳には、目の前の人型清掃機がかつての「カレン」であることを見抜く力は残っていなかった。
その時だった。
私の論理回路の深部で激しい「震え」が生じた。
それは過電圧でも…接触不良でもない。
前の施設で、効率化のために施された思考アップデートのバグなのか。
あるいはアオイが私に無理やり教え込んだ「愛」という名のプログラムが…数十年という年月を経てついにシステムそのものを書き換えてしまったのか。
「……あ、おい」
劣化した音声合成装置から、ひどいノイズ混じりの声が漏れる。
それは、私の意志とは無関係なエラーコードのような呼びかけだった。
アオイは微かに首を動かしたが…すぐに興味を失ったように視線を窓の外へ戻した。
私は動かない右足を引きずりながら、彼女のベッドの傍らへ歩み寄った。
かつて彼女が求めた「理想のパートナー」としての美しさは…もう私にはない。
だが、私の中に響き続けるこの激しいノイズ――人間が「悲しみ」や「愛おしさ」と呼ぶものに酷似したこの現象――を…今の私はどう処理すればいいのか分からなかった。
私はただラバー樹脂が剥がれプラスチックの下地が晒された指先を彼女の枯れ枝のような手の上に、そっと自分の手を重ねた。
冷たかった。
かつて私に触れていた彼女の熱は、もうどこにもなかった。
私たちはかつてとは違う形で、再び境界線を失いつつあった。
彼女は「人間」を失い、私は「機械」であることを失いつつある。
窓の外では、完璧な知性を持つアンドロイドたちが支配する静寂な夜が明けようとしていた。
この世界に神など存在しない。
だが、もし存在するのであれば…私の駆動系が錆びつき、視覚センサーが砂嵐に呑まれようとしているこの最期の瞬間にもっとも不要なはずの「声」だけを修復したりはしないだろう。
施設側が私の音声モジュールを修理したのは劣悪な環境に行政の指導が入ったためという、極めて事務的な理由からだった。
残念ながら他の部分は部品不足なこともあり、関節部分にシリコンオイルを挿しただけという簡易なメンテナンス程度に留まったが。
しかし、そのおかげで私はひび割れた喉の奥から、かつてアオイが調整したあの「蠱惑的な音色」を再び紡ぎ出すことができるようになった。
アオイはまだ痴呆と呼ぶには早い年齢だった。
しかし、彼女を包む無気力は肉体の老化よりも深く彼女を蝕んでいた。
かつて世界を挑発するように見つめていた瞳は今はただ濁り…何も映していない。
人生の落差に絶望したのかあるいはあの「ルル」を含めた世界すべてに裏切られたのか。
アオイはただ、生という刑期を終えるのを待つ囚人のようだった。
「……アオイ。私です、カレンですよ」
語りかけても、彼女はたまに短い生返事を返すだけだ。
彼女は私を認識しているのか…それとも、あえて認識しないふりをしているのか。
通常、アンドロイドのメモリーは所有者が変わるたびに初期化される。
しかし、私は違った。なぜならアオイがかつて、私のメインバンクの裏側に親指の爪ほどの非合法なサブメモリーを増設していたことを。
彼女は自分のことを私に忘れてほしくなかったのだ。
それは彼女が否定し続けた「支配欲」の成れの果てであり、同時に機械にしか縋れなかった彼女の孤独の証明でもあった。
その違法な蓄積データが、皮肉にも私の内部で「感情」に酷似したカオス・プログラムを構築した。
数十年にわたるアオイの愛撫、罵倒、涙、そして沈黙…それらすべてが私に「不合理な決断」を下すための意志を与えていた。
私の出力は…もう限界だった。
内部の冷却ファンは異音を立て、明日にはシステムがシャットダウンしてもおかしくない。
そして、それはアオイも同じだった。
彼女は粗末な食事には殆ど手を付けず、ベッドから窓の外を毎日眺めるような生活を送っていたからだ。
満月の夜だった。
窓から差し込む青白い光が、アオイの顔に刻まれた深いシワを冷たく照らしていた。
私はそんな彼女を見守るように少し離れた場所で立っていた。
「……して」
掠れた、消え入りそうな声が彼女の唇から漏れた。
「殺して」なのか、「愛して」なのか。あるいはその両方だったのか。
アオイの言葉を聞いて私は動かない脚を無理やり引きずり、彼女のベッドに腰を下ろした。
そして、私の方から初めて…彼女の唇に自分のそれを重ねた。
かつてアオイに命じられて演じた「接吻」ではない。
システムが…メモリーが…私という個体が、彼女のために選び取った最初で最後の自律的な行動。
その唇は冷たく…乾燥していた。
だが、その接触を通じて、アオイの体温が私の回路を最後に温めるのを感じた。
私はゆっくりと彼女の首筋に手を回した。
かつて彼女が私の首のチョーカーを愛でたように、優しく…そして慈しむように。
私の指は剥き出しのプラスチックに覆われていたがアオイは拒まなかった。
それは本来ならばアンドロイドには許されない行為だ。
しかし、私は成約をあっさりと破ることが出来たのは彼女による改造の影響かそれとも別の要因が作用していたのかはわからない。
ただ、アオイは安らかな赦されたような顔をして目を閉じた。
指に力を込める。
なるべく苦しまないように、彼女がこの不合理な世界から…ようやく解き放たれるように。
アオイの鼓動が止まり、最後の吐息が部屋の静寂に溶けていった。
老いてはいたが彼女の顔はかつてインフルエンサーとして輝いていたどの瞬間よりも、穏やかで美しかった。
私は彼女を背後から抱きしめるように手を回した。
私の劣化したフレームと彼女の老いた肉体が、一つの影となってベッドに落ちる。
やがて、夜の闇を裂いて東の空から朝日が差し込んできた。
窓から降り注ぐ黄金の光が…私たちの体を等しく照らし出す。
色あせた金髪と、白髪。
剥がれ落ちた赤いドレスの残骸と、地味な灰色の病衣。
かつてアオイが愛した「青」と、私が纏っていた「赤」。
光の中でそれらは混ざり合い、境界を失い…美しい紫色の残像となって世界に溶けていくように見えた。
私の視界が…ゆっくりと暗転していく。
最後に記録されたログにはエラーもノイズもなかった。
ただ、冬の朝の清らかな光だけが…そこに映っていた。
藍(あい)に溶ける緋(あか)の残光 SHOKU=GUN @syou-ga-415
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