第5話 自分の手
翌朝、目覚めた瞬間に違いが分かった。
静かすぎる。
胸の奥にあったはずの“張り”が、ない。
危険を察知する直感も、
正解を指し示す確信も、
どこにもなかった。
世界が、急に広くなった気がした。
それと同時に――
頼りなかった。
⸻
駅までの道で、私は何度も立ち止まった。
信号を渡るタイミング。
人の流れに乗るか、待つか。
エスカレーターか、階段か。
今までなら、
考える前に身体が動いていた。
今日は違う。
「……どっちでもいい」
そう思おうとして、
できなかった。
どちらを選んでも、
“正しい”という保証がない。
それが、こんなにも重いとは思わなかった。
⸻
講義中、ノートを取りながら、
私は何度も手を見た。
自分の手。
細くて、
特別な力はなさそうで、
少し汗ばんでいる。
――これで、選ぶ。
その事実が、
胸の奥で鈍く響く。
⸻
昼休み、アキから連絡が来た。
今日、無理はするな。
判断が鈍る。
私は、短く返した。
分かってる。
本当は、分かっていなかった。
⸻
その日の夕方、
私はミナの家の近くまで行った。
意味はない。
会えるわけでもない。
それでも、
行かなければいけない気がした。
“手”は、何も言わない。
足は、止められない。
――これが、自分で選ぶってこと。
⸻
雨が降り出した。
傘を持っていなかった。
天気予報を、確認していなかった。
今までなら、
こういう日は必ず避けられていた。
私は、笑ってしまった。
「……そっか」
濡れることも、
想定外も、
全部、これからは起きる。
⸻
角を曲がった瞬間、
私は人とぶつかった。
強く、ではない。
だが、バランスを崩すには十分だった。
地面に倒れ、
手をついた。
痛みが走る。
掌が、擦り切れていた。
小さな傷。
血が、にじむ。
私は、それをじっと見た。
――守られていたら、
こんな傷すら、なかった。
⸻
「大丈夫ですか?」
声をかけられた。
若い女性だった。
見知らぬ人。
「……はい」
立ち上がろうとして、
足がもつれた。
彼女が、手を差し出す。
一瞬、
身体が強張った。
――取っていいのか。
“導く手”じゃない。
ただの、人の手。
私は、迷った末に、
その手を取った。
温かかった。
だが、判断は与えてくれない。
支えられながら立ち上がり、
私は礼を言った。
彼女は、すぐに去っていった。
それで終わり。
運命的でも、
象徴的でもない。
ただの、出来事。
⸻
帰宅してから、
私は傷口を洗った。
消毒液が、染みる。
涙が、少しだけ出た。
痛いからじゃない。
「……私、失敗してる」
傘を忘れた。
転んだ。
怪我をした。
どれも、小さなこと。
だが、
今までの人生には、なかった失敗。
私は、深く息を吸った。
そして、思った。
――それでも、生きてる。
⸻
夜、ベッドに横になり、
私は天井を見つめた。
不安は、消えない。
正解も、分からない。
でも、
胸の奥に、奇妙な感覚があった。
軽い。
誰かに最適化されていない人生。
誰かの計算に含まれていない未来。
それは、
怖くて、
不完全で、
そして――
確かに、私のものだった。
⸻
私は、そっと右手を握った。
この手は、
導かない。
保証もしない。
だが、
掴むことはできる。
間違いも、
後悔も、
全部引き受けて。
それでも、
前に伸ばすことはできる。
次の更新予定
その手が離れるまで SeptArc @SeptArc
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