第4話 離れるための条件

アキは、私を古い資料室に連れて行った。


大学の地下。

使われなくなった研究棟の奥。

鍵は壊れていて、

誰も入らない場所だった。


「ここなら、邪魔されない」


彼はそう言って、

薄暗い室内の明かりを点けた。


埃を被った棚に、

古いノートや記録が無造作に積まれている。


「……これ、何?」


「“手”を持つ人間が残したもの」


私は、喉が鳴るのを感じた。



ノートは、どれも途中で終わっていた。


文字が乱れ、

文章が途切れ、

最後は意味を失っている。


「書いてる途中で、

正しさが分からなくなるんだ」


アキが言う。


「手を拒んだ人間は、

選択の保証を失う」


「だから、記録も続かない」


私は、ページをめくる。


今日は、選択した。

正しいかは分からない。

だが、自分で決めた。


その次のページは、

空白だった。


「……失敗したんですか」


「成功もある」


アキは即答した。


「でもな、成功しても――

“成功したという確信”が残らない」


胸が、締め付けられる。


「守られてきた人生は、

結果が“正しかった”って感覚が残る」


「それが消える」



私は、思い出していた。


今までの選択。

後悔の少なさ。

迷いのなさ。


それらは、

私の性格じゃなかった。


“手”が、選んでいた。


「……離れる条件って、何ですか」


聞いてしまった。


アキは、少しだけ黙った。


「三つある」


その声は、重かった。



一つ目。


手を拒んだ選択で、

誰かを失うこと。


私は、すでに満たしていた。


ミナの声が、

頭をよぎる。


「一度じゃ足りない場合もある」


淡々と告げられる。


「手は、執着する」



二つ目。


それでも、再び手を求めないこと。


「助けてほしいと思った瞬間、

手は戻る」


「恐怖、後悔、孤独――

それ全部、呼び水になる」


私は、自分の手を握った。


震えが、止まらない。



三つ目。


導かれてきた選択すべてを、

“間違いだったかもしれない”と認めること。


言葉の意味が、

すぐには理解できなかった。


「今までの成功も、

避けてきた失敗も、

守られてきた偶然も」


「それらを、

“自分のものではなかった”と

受け入れる」


それは――

人生そのものを否定する行為だった。



「それ、無理じゃないですか」


声が、掠れる。


「自分が生きてきた道を、

全部疑えって……」


アキは、私を見た。


その目は、疲れていた。


「`

「だから、ほとんどの人は

三つ目で折れる」


「手は、人生を与える代わりに、

“自分”を奪う」



私は、立ち上がった。


「……じゃあ、

あなたはどうしたんですか」


アキは、少しだけ笑った。


「俺は、まだ途中だ」


「拒み続けてるだけ」


「完全には、離れてない」


その言葉が、

妙に現実的だった。



その瞬間、

空気が変わった。


手首が、重くなる。


あの感触。


――ここにいる必要はない。

――非効率。

――戻れ。


私は、息を止めた。


「……来てる?」


アキが、低く言う。


私は、うなずいた。


「今度は、はっきり分かる」


圧が強い。

逃げ道を塞ぐような、

確信に満ちた力。


――君の人生は、

まだ最適化できる。


その“提案”が、

優しくすら感じられてしまう。


「ユイ」


アキが、叫ぶ。


「ここで戻ったら、

もう二度と疑えなくなる」


私は、目を閉じた。



守られた人生。

失敗の少ない未来。

痛みのない選択。


それらが、

すぐそこにあった。


だが、

ミナの声が、

はっきりと残っている。


――助けて。


私は、歯を食いしばった。


「……私は」


言葉にしなければ、

負ける。


「この手が選んだ人生を、

正しいって言えない」


圧が、強まる。


「誰かを切り捨ててまで

続ける最適化なら、

いらない」


――最適ではない。


「それでいい」


私は、叫んだ。



手首の圧が、

一瞬だけ、揺らいだ。


完全には、消えない。


だが――

“絶対”ではなくなった。


アキが、息を吐く。


「……今のが、

本当の分岐点だ」


私は、立っている。


守られていない世界に。

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