クロッカスの咲かない部屋

橘夏影

22:59


 週末の夜。リビングの灯りを落とし、煕灯いさりはいつものように、錆色のソファに身を横たえる。

 学生時代に買って以来、もう何年使っているか分からない。求肥の如く柔く沈み込むクッションが、彼の疲れを掴んで離さない。

 

 医者の不養生よろしく、仕事で輸入家具を扱う者らしからぬと言えば、彼は自嘲的にすら笑わないだろう。

 今夜もなにかを罰するかのように体を折り曲げ、いつ訪れるともしれない眠りを待つ役目に就く。


 衣擦れの音に気がつくと、薄闇の中で妻の結衣ゆいが扉の前に立っていた。

 彼は再び、瞼を薄く閉じる。寝たふりをしていれば、やがて去るだろうと。


 しかしその日は違った。

 さらさらとフローリングを擦る音を連れ、彼女は覆い被さるようにして、彼に身を寄せる。

 再び瞼を開くより速く、彼の頬になにかが触れた。

 首をもたげると、今度は唇に。

 耳元で、結衣が囁く。


「今日はたぶん寝ちゃうと思うけど……明日の夜に……ね?」

「……無理しないでね」


 煕灯いさりは曖昧に淡く微笑むと、緩慢な指先で結衣ゆいの髪を撫でながら、そう告げる。

 結衣ゆいは拗ねたような表情を浮かべると、再び唇を重ね、娘の待つ、かつての夫婦の寝室へと去っていった。


 かたり、という音と共に扉が閉まると、彼はカサついた唇を撫でた。

 腹筋を使い、纏わりつくブランケットを押しやりながら、キッチンへと向かう。


 蛇口を捻り、ウイスキーグラスの六分目ほどまで水を注ぐと、調理台に手をついたまま、しばらくそれを眺めていた。

 

 脳裏に水面が見えた。男が岸辺に腰を下ろし、ゆっくりと桟橋へと近づく小舟を眺めている。船頭は周囲を見まわし、やがて男に気がつくと、じっと見つめた。男は動かない。手も振らない。微笑んでいるかもしれないが、船頭に見えているかは判然としない。船頭はいつか諦めて船を出すだろう。いつもと同じだ。


 2回ほどに分けて、水を煽る。喉の鳴る音が、その日の彼には耳障りだった。

 グラスをゆすいで、また元いた場所へと戻っていく。


 彼は思う。最近の妻は変わったと。

 情が深くなったような気がする。

 なぜかは分からない。

 素っ気なく感じて、危機感を覚えたのだろうか。そして愛情を、あるいは家庭を守るために何かの回路が動いたのか。あるいは、僕に何かの熱を感じたのか。


 ただ僕としては「おなじだ」と思うだけだった。

 擦り切れ、燃やしつくし、乾いて灰になった頃に、彼女らは動く。

 ときに振り向き、ときに押し倒し、ときに艶美に微笑む。

 

 彼女らのせいじゃない。

 きっと僕がいけないんだ。

 回路が、悪いのだ。

 そもそも、もう動かないはずだった。

 今度こそ、壊さないと。


 目を閉じる。

 矮鶏のような、赤い頭のスレッジハンマーを振り上げる。

 



 *




 麗らかな春の日差しが、細い窓から差し込んでいた。


「今日は、ありがとう」

「喜んでくれた?」

「もちろん」


 結婚記念日であり、彼の誕生日のその日。

 ふたりは結衣の予約した創作日本料理の店にいた。


(こういうの、いつぶりだろうな)


 煕灯いさりは久しく感じていなかった温かさを胸の奥に感じた。

 決して激しくはない、それでも、確かな温かさを。


「時々、またこんな風に時間、作れないかな。本当は、1日……半日でもいいから、ふたりの時間が欲しかったんだよね」


 店を出た後、彼は結衣にそう語りかけた。

 その日は、娘を結衣の実家に預けてきていた。

 ふたりが住むアパートから車で15分ほどの所に住んでいて、よく世話になっていた。

 

 結衣は「うーん」と、すこし困ったように逡巡したあと、口を開く。


「やっぱり子どものこと気になっちゃうし、親にも悪いし……」

「……そう……だよね……」


 ああ、僕はいま、妻を困らせている。


「今日みたいにご飯くらいなら、月一とか……?」

「……うん、そうだね」


 たぶん、この約束は果たされないと思った。

 

「ごめんね?」

「いや、大丈夫。そろそろ行かないとね。気をつけて」


 そう言って、手を振った。

 今日の午後、結衣はライブ。もちろん、聴く側で。

 それ自体を責める気持ちはない。僕にだって、そういう時はある。

 持ちつ持たれつ。羽を伸ばしてきて欲しい。

 ただ――


『休みの日とか、何してます?』

『うーん、あ、先週末は妻とフェス行きましたね』

『おふたりで……ですか?』

『そうですね』

『仲、良いんですね』

『いやぁ、しょちゅう喧嘩してますけどねー』


 子どもらを公園で遊ばせる傍ら。パパ友との、そんな会話を思い出す。

 どこか遠い国のことのように感じた。

 

 僕の何かが、悪かったんだろうか。

 夫婦仲が悪いとは思わない。

 確かに、結衣とはつき合っている時から一方通行な感じがして、僕は小さく不満を漏らしていたけれど。

 でもそれは自分で選んだことだと、引き受けた。

 

 僕は疲れ切って、結衣を選んだ。

 選んだことで血も涙も流した。

 だからこれが最善なのだと。


『もう、できるらしいよ?』

『……ん?』

『……その……夫婦生活』

『……そっか。……でも、我慢するのも、慣れなっちゃったしなあ』


 妻が出産してからしばらく経った頃。そんな会話もあった。

 あれからもう、6年近くが経つ。

 結衣は、彼女なりの勇気を出してくれたのかもしれないのに。

 僕はたぶん、もう期待したくなかったのかもしれない。


 


 *




 恰幅の良い、短髪のその医者はサッとカーテンを引くと、煕灯いさりに身を寄せた。

 どこかの政党の党首に似ているな、と彼は思った。

 

「で、たないと?」

「はい……まあ、6年くらい妻とはなかったので、その影響はあると思うんですけど。歳なんですかね」

「いやいや、まだ全然だよ」


 そう言って医者はガハハと笑う。


「オナニーはする?」

「はい……まあ、そういう時はちゃんとなるんですけど」


 医者は腕組みをしたまま、うーむと唸る。

 

「まあ若いし、勢いっていうか、弾みがつけば大丈夫だと思うんだよねー。相手変えろっていう訳にいかないしさ」


 凄いことを言うなと煕灯いさりはいくらか唖然としつつ、医者からすればそんなものかとも思った。

 煕灯いさりは決して性欲が弱いわけではない。

 だが彼にとっての性はあくまで手段であって、それは代替不可能な回路でありながらも、彼が求めているのは繋がりだった。

 世界との、繋がり。

 

 だから彼はいわゆる風俗に行ったことはなかった。自分が清廉潔白だと考えているわけではない。ポルノは見るわけだから、間接的に消費はしている。セックスワーカーに敬意も持っている。

 ただリアルで女性を買うようなことはしない。それは主義であり、単にそれでは満たされないことを分かっていたというだけかもしれないけれど。

 かつての職場で、毎週金曜日になると部下を連れて夜の街に消えていく上司を冷めた目で見ていた。それは昇進には不利なのだろうと思いながらも。


「こういうこと言うと絶対怒られるんだけどさ、男の方が女の人よりずっと繊細だと思うわけよ?」


 またも過激な発言に、煕灯いさりはついカーテンの向こうに人の気配を探ってしまう。


「男がみんながみんなサルじゃないでしょ?女の人は潤滑油使ったり手段は色々あるけど、男はがんばったところで勃たないもんは勃たないしさ?むしろ焦るほど余計に勃たないのよ。で、パートナーがガッカリして責められて負のスパイラル、みたいな」


 相手の女性としても、自分のせいなんじゃないかと思えば、それはやはり怖いのだ。


「とりあえず、一回薬出すから。それで切っ掛けが掴めれば、まあ大丈夫でしょ。あ、でも保険きかないからね。何回分くらいにする?」


 


 *


 

 

「……すごかった……」


 終わった後、いつもは言葉少なな結衣から、そんな言葉が零れる。

 

「なんか、いっぱい出てたもんね」


 煕灯いさりがそう言うと、結衣はデリカシーのない彼の頬を抓った。

 彼は、妻がもたらした雨の温かさを思い出して、心地良い余韻に浸っていた。

 彼が腰を落とすたび、それは噴き出し、腹を濡らした。

 中から、外から、煕灯いさりが結衣を抱き締めると、それだけで結衣は声を抑えることができなくなった。

 揺れてさえいなかった。それでも、震えは伝わった。

 彼女は甘い痺れの逃げ場を失くして、なされるがままに、ただ彼を受け止めた。


「……もう、そういう風に見てもらえないんだろうなって、思ってた」


 結衣のそんな言葉を、煕灯いさりは、来年の天気予報のように聞いた。


「俺も……そうだよ」


 娘と一緒に、脱衣所で服を脱いだ結衣の裸体を見るたび、彼は焦がれていた。

 出産後、体型が崩れてしまったと彼女は思っていただろう。

 でも、それすら彼には愛おしかった。

 それは、彼女の大切なしるしだと。


 結衣は結衣で、時折新しい下着を買った。

 なにか、切っ掛けを掴みたいと。

 でも彼は気がつかなかったし、よく考えれば、きちんと見せる時間がそもそもなかった。


 でもいま、満たされている。

 たぶん、そう。

 少なくとも、ふたりが触れ合ってきた中では、最高に。

 そこには、それなりの感触があった。


 寝室へと去ろうとする結衣を 煕灯いさりもう一度そっと抱きしめる。

 口づけを交わす。

 見送った後、彼はまた定位置に戻る。


 ぼんやりと彼女の去った扉を見つめる。


(それでも……届かないんだな……)


 いま、彼の胸にあるのは、どこか虚ろな感触だった。

 行為の最中、繰り返すたびに甘さを増す妻の声を聴きながらも、ずっと治まらなかった渇き。

 

 目を閉じ、記憶の棚の奥を漁る。

 そこにある、言葉たちを。痛みを。感触を。

 胸の一番深くが震え、痺れ、芯からじわりと温かくなる。

 なにかが、根を張っていた。


 


『苦労、するんじゃない?良くないものも、色々と引き受け過ぎちゃってさ』




 たくさんの言葉があった。

 ひとつ選べと言われたら、嘘になる気がする。

 それでも思い出すのは、そんな言葉。


 触れられてしまった。

 かつて誰にも触れられたことのなかった場所を。

 そっと、指先で撫でるように。


 触れてしまった。

 それは痛みとなって跳ね返り、僕の同じ場所を貫いた。


 そういう場所が自分の中にあること自体は、少し前からなんとなく気がついていた。

 でも、誰かに触れられるなんて思ってなかったし、触れられて初めて、その深さを自覚した。


 だから、思わずその手を、掴んでしまった。

 堪えていたつもりでも、きっとその力は、自分で思っているよりも強くて。

 きっと、逃げられてしまうだろうと思ったけれど。

 

 でも、見てしまったような気がした。

 朗らかな笑顔の、気丈さの裏にあるものを。

 

 自分の中に、まだそんな熱が残っていたことに、驚きもした。

 土に埋もれ、錆びつき、死んだと思っていた回路が、まだ生きていたことを知ってしまった。

 なかったことには、もうできなかった。

 だから、自分だけで、抱えていくしかない。


 たしかなこと。

 それは、この震えを妻に求めてはならないということ。

 そんなことは、互いを不幸にするだけだ。

 

 繋がりを取り戻してからも、何度も話して、体を重ねて、わかった。

 意志や努力ではどうしようもない、構造の問題なのだと。

 辿ってきた、軌跡の問題なのだと。

 

 たぶんこの先、なにを選んだとしても、なにかを失い続けるということを。


 誰も、悪くない。

 ただ、懸命に生きてきただけだ。

 

 煕灯いさりは泣いた。

 わけもわからぬまま、ただ涙が流れるに任せた。


 


 *




 眩しさに瞼を開けると、もうすっかり夜が明けていた。

 随分と、古い夢を見ていた気がする。

 もう、ずっとむかしの。

 

 頬に触れると、干上がった川のような、涙の痕があった。


 顔を洗おう。



 

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クロッカスの咲かない部屋 橘夏影 @KAEi_Tachibana

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