鳴手【後編】


(こんなつもりじゃなかったんだけど……。いいさ、毎日毎日勉強勉強で息が詰まってたところだ。数十分の息抜きで済むなら、安いもんだろ)

 空き時間を錬成した意味はなくなってしまったが、褒められて悪い気はしないし、絵を描くのも好きだ。

 なにより引き受けたのは俺自身なんだから、後悔なんてするはずもない。

 俺は描いた。4Bの鉛筆あいぼうを左手に持ち替え、自分自身の右手を描いた。

 

 スポーツなんかをやっていると“ゾーンに入る”ことがあるが、このときもそんな感じだった。

 周りの生徒が鉛筆を滑らせる音はおろか、自分が手元で奏でる摩擦音すら聴こえない。

 無音の世界。

 極限を超えた集中力を発揮した俺は、終業のチャイムより二十分も早く右手を描き終えた。


(………………出来た)

 脱力したが、美術室の椅子には背凭れがない。

 後ろに倒れる寸前で踏ん張った。――久しぶりの労働はどうだ、腹筋くん。

 鉛筆と紙の擦れる音はそこかしこから聞こえてくる。

 正面の奴も右隣左隣の奴もまだ背中を丸めていたし、軽く見回してみてもスケッチを完成させた生徒はまだ多くなさそうだ。

 ――が、また席を立って先生のところまで行くのもかったるかったし、今度は他のものを描かされたりしたらと思うと気が乗らなかった。

 

 だから、完成したスケッチを眺めてたんだ。

 試験だってそうだろ。全問解き終わったあとに見直しをして、必要があれば訂正する。

 まあ、これは別に美大の試験でもなんでもないから直す必要なんてどこにもなくて、俺自身も“直したほうが作品の質クオリティ上がるだろうな”って部分を発見しても、直そうなんて思ってなかったんだけどさ。

(…………ん? 俺、こんな角度で描いたっけ? ここの陰影だってもっと濃く――細かく描いてたし。え。……え、なに? おかしくね? 俺のタッチだけど、俺こんな風に描いてないんだけど)

 完成品に見つけた異変。

 俺が手を加えることを決めるには十分な動機。

 毎日握ってるシャーペンよりも箸よりも馴染む4Bの鉛筆あいぼうを右手に構えた、そのときだった。


 ――平面に立体的に描かれた俺の両手が、開かれた状態で俺の前に突き出された。

「!?」

 制止をかけたいときにするジェスチャーをした手のひらには、書き込んでいないはずの手相までもが刻まれていた。

 自分の手相とか知らないけど、たぶん転写したみたいにそっくりそのまんま。


(動い……た……? 動い……てる……よな…………?)

 目を凝らして見てみると、俺に向かって広げられた手のひらは、風にそよぐカーテンのようにひらひら舞っていた。

(なんだ……? 何が起こってる?)

 情けない悲鳴を上げずに済んだのはよかったが、俺はとんでもないものを描いてしまったらしい。

(描いた絵が動き出すとかさあ。昔話にそんなんなかったか? SNSに上げて――もフェイク認定されて終わりか。……嫌な時代だぜゆめがねえな

 頬杖をついて、なんでもないふりをした。

 唇をへの字に曲げてから気付いた。そんなことする必要なかったじゃん。

 誰に見られているわけでもないし。

 ――いや、俺が描いた手からはもしかしたら俺のことが見えているかもしれないし、まったく無意味ってわけでもないのか?

 

 紙の上の手は、スクリーンに映し出された映像さながらに滑らかに動いている。

 神経が通っている――とか通り越して、魂を持っているんじゃないかと思ってしまうほどに。

 それに引き換え、俺ときたら手の動きを視線だけで追っているという体たらく。

(俺の魂、そっち移ってたりして。だから、こんなにだるいとか…………まさかな。そこまでガチってねえし。ないない、ありえないって。たぶん居眠りして夢でも見てんだろ。チャイム鳴ったら嫌でも起きる――)

 全神経を集中させてなにかをしたあとに、なにもする気が起きなくなってしまうのは当然だろう。

 ショート動画をぶっ続けで見ていたら数時間経過していたみたいな話も、たぶん疲労によるもので。

 俺もきっと全力で描き切った反動で、微睡みに落とされていて――。

 普段の倍くらい横長になった視界には、まるっきり同じ映像が延々と流れている。

 4Bの鉛筆で描かれた手は、先ほどから同じ動きを繰り返しているようだった。

(“わたしを”……“書く”、“お願い”?)

 紙面の両手は、たぶんそう言っている。

 手話なんててんでわからないけど、動き的にそう言っているとしか考えられない。

(さっきみたいに俺の手を描けばいいのか? ……いや、“わたしを”って言ってるくらいだし、手じゃなくてスケッチのほうを描くべきか)

 転がしていた鉛筆を取ると、紙面の手が突然止まった。

(なんだよ、急に。……あ。ポーズ取ってるとか?)

 面食らいつつも、紙を一枚破り、見えているままの姿を描いてやる。

 完成と同時にチャイムが鳴った。

(課題より時間掛かったな。まあいいか)

 スケッチブックを提出して美術室を出る。破った紙は教科書に挟んで持ってきた。


「……やっぱ動くのかよ」

 自宅に着いた俺は、美術の教科書を開いて例の動く手を描き付けたスケッチを出した。

 いつもなら参考書チャートを開くところだし、美術の教科を家に持って帰ってきたのも初めてだ。

 教科書目当てじゃないけどな。

 用があるのは、挟んで持ち出した紙切れのほうだ。

 

 破った紙を持ってきた理由は言うまでもない。

 こっちの絵もスケッチブックに描いた絵と同じように動くかどうかを確かめるためだ。

 案の定と言うべきか、紙の上の俺の手は血が通っているかのように多彩な動きを見せた。

 色んなハートを作ってみたり、大人たちに眉を顰められるような卑猥なハンドサインをしてみたり。

(俺よりおしゃべりじゃん。……口、ないけど)

 最初こそ不気味に思えたが、なかなか愛嬌がある奴だ。

 そう思ったのも束の間。

 そいつはひと通り動いてみて飽きたのか、美術室で最初に見せたのと同じ動きを繰り返すマシンに逆戻りしてしまった。

「はいはい、描きますよっと」

 俺は描いた。

 手が指定するポーズを来る日も来る日も描いて描いて描きまくった。

 ひとつとして同じアングルはなかった。

「………………気は済んだか?」

 手からの“自分を描け”という要求が止んだのは、描き上がったスケッチがちょうど俺の手の厚みほどになった頃だった。

「もういいって。わかったって。……照れるだろ」

 描かれること、あるいは絵のモデルとなることはマイブームのようなものだったのだろうか。

「いや、次のブームが拍手それってだけか」

 そいつは俺に向かって拍手を送ってくるようになった。

 音さえ聞こえてこなかったが、脳内には絶えずそいつが手を鳴らす音が響いているような気がした。

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