第2話:隣のベッドと、罪の匂い

 放課後の廊下は、西日に焼かれた百合の花の香りが、重く、濃く滞留していた。

 私は、前を歩く白石ルナの背中を見失わないよう、数歩後ろを付いて歩く。彼女の歩調は常に一定で、その背筋は定規で引いたように真っ直ぐだ。揺れる長い黒髪が、陽光を弾いて時折鋭い光を放つ。その光が私の目に刺さるたび、私は自分の偽装がほんの少しずつ、剥がれ落ちていくような錯覚に陥った。


「蒼井さん、こちらよ。今日からここが、貴方の『家』になるの」


 辿り着いたのは、学院の敷地内で最も静謐な場所に建つ、レンガ造りの建物だった。女子寮『白百合寮』。

 校舎よりも一段と高く、そして冷徹な壁。私のような異物にとって、そこはもはや生活の場ではなく、いつ爆発するとも知れぬ地雷原に等しい。

 重厚なエントランスを抜けた瞬間に漂ってきたのは、幾層にも重なった柔軟剤の甘い溜息と、少女たちが持ち込む私生活の断片が混ざり合った、眩暈のするような「生活の匂い」だった。


 ルナが三階の角部屋の前で立ち止まり、銀色の鍵を取り出した。

 鍵穴に差し込まれ、回る音。カチリ、という小さな金属音が、私の処刑台の階段が完成した音に聞こえた。


「さあ、入って」


 開かれた扉の向こうに広がっていたのは、驚くほど清潔で、それでいて逃げ場のない「密室」だった。

 向かい合わせに配置された二つのシングルベッド。その間を隔てるものは、小さなナイトテーブル一つだけ。壁に備え付けられた共有のクローゼット、そして二つの学習机。

 窓からは、暮れなずむ学院の森が見えた。


「……ここが、私のお部屋……?」

「ええ、今日からは『私たちの』お部屋よ、しずくさん」


 ルナは事もなげに言い、自分のベッドに座って優雅に微笑んだ。

 私は、扉の横で立ち尽くしたまま、その空間の物理的設計を瞬時に脳内へとトレースした。

 ベッド間の距離、およそ一・五メートル。

 寝息すら届く距離だ。無意識の寝返りや、眠りの淵で漏らすかもしれない本音。それらすべてが致命的な「証拠」になり得る。

 私は、自分の胸元をそっと押さえた。

 ブラウスの下で、晒(さらし)が私の肋骨を強く、痛いほどに締め付けている。その圧迫感だけが、私がこの空間に馴染むことを拒んでいる唯一の証明だった。


「どうしたの? そんなところで立ち尽くして。まずは、その重い制服を脱ぎましょう? 楽な格好になったほうが、心も解れるわ」


 ルナが立ち上がり、自分のリボンに手をかけた。

 私は、心臓が跳ね上がるのを感じた。


「あ、の……! ルナさん」

「なあに?」

「着替え、は……。私は、その、洗面所をお借りしてもよろしいでしょうか」


 ルナの手が止まり、彼女は不思議そうに首を傾げた。

 

「まあ、どうして? 女の子同士、隠すことなんて何もないでしょうに。もしかして、蒼井さんはとても恥ずかしがり屋なの?」


 その澄んだ瞳に悪意はない。だが、その純粋さこそが私を追い詰める。

 私は、自分の喉が乾燥し、ひび割れていくような感覚を覚えた。

 女の子同士、隠すことなんて何もない。

 その言葉が、私の内側にある「異物」を激しく抉った。

 

「……はい。その、あまり、人前で肌を見せることに慣れていなくて。申し訳ありません」


 私は頭を下げた。視線を床に落とすと、自分の華奢に見せかけた靴先が微かに震えているのが見えた。

 ルナは一瞬の沈黙の後、小さく、鈴の鳴るような声で笑った。


「いいのよ、謝らなくて。貴方のそういう慎み深いところ、私は嫌いじゃないわ。わかったわ、洗面所はあちらよ。ゆっくりで構わないから、着替えていらっしゃい」


 私は逃げるようにして、指定された洗面所へと飛び込んだ。

 鍵を閉め、背中で扉を抑える。

 

 途端に、冷や汗が噴き出した。

 狭い鏡の中に映っているのは、青ざめた顔をした一人の「少女」だ。

 私は震える手でリボンを解き、ブラウスのボタンを一つずつ外していく。

 

 布が肌を離れるたび、逃げ場のない密室に、私の「不自然さ」が曝け出されていく。

 ブラウスを脱ぎ捨て、晒を緩める。

 

 ――っ。

 

 肺が大きく膨らみ、酸素が全身を巡る。だが、その快感さえもが私にとっては罪だった。

 晒の下にある、女性のものとは明らかに異なる、硬く、平坦な胸部。肩幅を隠すためのパット、腰回りの起伏を殺すための補正布。

 鏡の中の私は、美しく装飾された「怪物」のようだった。

 

 私はタオルで汗を拭い、用意していた薄手のネグリジェに着替えた。

 これさえも、身体のラインを拾わないよう慎重に選ばれたものだ。

 鏡の前で髪を整え、再び「しずく」としての顔を作る。

 

 扉を開け、寝室に戻ると、そこには既にパジャマ姿のルナが、ナイトテーブルに小さなティーセットを並べて待っていた。

 部屋には、華やかな紅茶の香りが満ちている。


「お疲れ様。少しはお部屋に慣れたかしら?」

「……はい、ありがとうございます」


 促されるまま、私はルナの向かいにある椅子に座った。

 彼女が淹れてくれた紅茶は、信じられないほどに甘く、そして苦かった。

 

「しずくさん。貴方の手、とても冷たいわ」


 不意に、ルナの白く細い指が、カップを握る私の手に触れた。

 

 ビクリ、と肩が跳ねる。

 彼女の指先は驚くほどに温かく、そして柔らかかった。

 その温もりが、私の皮膚を通して、隠し持っていた「男」の輪郭を焼き切っていくような錯覚に陥る。

 

「そんなに怯えないで。私は、貴方を傷つけたりしないわ」

 

 ルナはそのまま、私の髪を一房、愛おしそうに指先で弄った。

 彼女の顔が近い。

 長い睫毛、潤んだ瞳、そして、彼女の呼気から漂う、あの「罪の匂い」。

 

 私という異物が、この聖域を、この純粋な少女を汚している。

 その背徳感が、脳内を真っ黒な絵具で塗り潰していく。

 これは潜入任務だ。

 恩を返すための、必要な偽装だ。

 そう自分に言い聞かせる声は、ルナの優しい眼差しに遮られ、どこか遠くへ消えていった。


(……ああ。私は、なんて醜いんだろう)


 彼女を騙していること。

 彼女の信頼を、名前さえ偽って受け取っていること。

 そして、その温もりに、一瞬でも「救い」を感じてしまったこと。

 

「……ルナ、さん」

「なあに?」

「私、は……貴方の期待に応えられるような人間では、ないかもしれません」

 

 それは、私の喉まで出かかった、唯一の真実だった。

 ルナは、少しだけ目を細め、さらに優しく微笑んだ。


「いいえ。貴方が『そこにいる』だけで、私は救われているのよ。あの時から、ずっと」


 あの時。

 その言葉が、私たちの間に横たわる、不可視の因果を震わせた。

 

 消灯の時間になり、部屋の明かりが落とされる。

 カーテンの隙間から差し込む月光が、床に青白い境界線を引いていた。

 

 私は、自分のベッドに潜り込み、毛布を首まで引き上げた。

 隣のベッドからは、ルナの規則正しい呼吸音が聞こえてくる。

 

 暗闇の中で、私の感覚は異常なほどに研ぎ澄まされていった。

 シーツの擦れる音、ルナが寝返りを打つ気配、そして、部屋を満たす彼女の匂い。

 

 眠ることなどできるはずがなかった。

 もし眠りに落ち、無意識の裡に私の偽装が解けてしまったら。

 もし、私の声が、本来の低さを取り戻してしまったら。

 

「おやすみなさい、しずくさん」

 

 闇に溶けるような、ルナの囁き。

 私は、その言葉への返答さえもが「偽り」になることを恐れながら、消え入りそうな声で答えた。

 

「……おやすみなさい、ルナさん」

 

 白百合の檻の中で、私の夜は、果てしなく長く、冷たい緊張と共に幕を開けた。

 明日には、また新しい「嘘」を重ねなければならない。

 

 この制服を脱ぐその日まで。

 私の正体が、彼女という名の光に焼き殺される、その瞬間まで。

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2026年1月20日 18:00
2026年1月21日 18:00
2026年1月22日 18:00

花とナイフと、わたしの制服。 五平 @FiveFlat

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