花とナイフと、わたしの制服。
五平
第一部:潜入と共鳴の章
第1話:最後の制服と、白百合の刃
その坂道は、まるで現世から切り離された断絶の階段のようであった。
私――蒼井しずくの足を包む黒い革靴は、舗装されたアスファルトを叩くたびに重い音を立てる。その音は、これから私が踏み入る聖域を汚す無骨な響きを孕んでいた。
道の両脇には、学院の名を象徴するように白百合が植えられている。盛りを過ぎ、わずかに茶色く変色した花弁が、湿り気を帯びた春の風に煽られて足元を舞う。
私は、止まりそうになる足を、意志の力だけで前へと進めた。
「――これは、最後の制服だ」
誰にも届かない声で、私はそう呟いた。
喉元までを固く閉ざす白のブラウス。その襟元には、高等部の証である深い紺色のリボンが結ばれている。化繊特有の、わずかに刺すような感触が首筋を刺激するたびに、私は自分の輪郭が曖昧になっていくような錯覚に陥った。
この布一枚。たったそれだけの、薄く、頼りない防壁。
しかしこの布一枚に、私はすべてを閉じ込めた。
あの子に向けたかった本当の笑顔も、消えない血の匂いも、そして――蒼井和志という、決してここに存在してはならない、男としての原罪も。
校門が見えてきた。
重厚な石造りの門柱には、歴史の重みを感じさせる青銅のプレートが掲げられている。そこには古風な書体で『私立白百合女学院』と刻まれていた。
門をくぐった瞬間、空気の密度が変わった。
それは、外の世界とは明らかに異なる、不自然なほどの純潔。
すれ違う少女たちの笑い声は、風鈴の音のように高く、涼やかだ。制服のプリーツが揺れるたびに、石鹸の清廉さと柔軟剤の柔らかな甘さが混ざり合った、この空間特有の「匂い」が鼻腔をくすぐる。
潜入者としての本能が、無意識に周囲を走査した。
校門から校舎へと続く並木道の死角、等間隔に配置された防犯カメラ、そして、こちらへ向けられる好奇と警戒の混じった視線の角度。
私はそれらすべてを「攻略対象」として分析する。
本来、男子高校生であるはずの私がここにいることは、物理法則に反したバグのようなものだ。見つかれば即座に排除される。この聖域における私の価値観は、もはや正常な人間のそれではない。私は一歩踏み出すごとに、自分の内側にある「男」としての意識を、深い海の底へと沈めていった。
(……慣れればいい。こんな制服、着慣れたふりくらいなら、すぐにできる。私は今、蒼井しずくだ。無口で繊細で、少しだけ身体の弱い、文学好きの少女。それだけが、この場所で許される私の定義なのだから)
自分に言い聞かせるように、私は歩幅を狭めた。
内股気味に、重心をわずかに高く。足音を消し、しなやかな曲線を描くように歩く。
案内役の教師に連れられ、重厚な木製の扉を開けて校舎の中へと入る。
廊下は鏡のように磨き上げられ、窓から差し込む陽光を反射して輝いていた。すれ違う生徒たちが、立ち止まっては優雅な所作で一礼していく。
そのたびに、私の心臓は肋骨の裏側を激しく叩いた。
もし、今、このリボンが解けたら。
もし、このブラウスの下に隠した晒(さらし)が緩み、私の骨格が露わになったら。
想像するだけで、指先が凍りつくような恐怖が這い上がってくる。だが、その恐怖こそが私を「しずく」として繋ぎ止める楔でもあった。
二年生の教室が並ぶ三階へと上がる。
教師が立ち止まったのは、最奥にある『白百合組』の教室の前だった。
「ここが、今日から貴方の居場所ですよ、蒼井さん」
教師の穏やかな声が、今の私には宣告のように聞こえた。
扉が開く。
瞬間、数十人分の視線が、津波のように私へと押し寄せた。
春の微睡みを含んだ教室の空気が、新しい「異物」の侵入に震えている。
私は教師の指示に従い、教壇の横に立った。
足元が覚束ない。視界が白く霞む。それでも、私は事前に何度も練習した「微笑み」を口元に湛えた。
「――蒼井、しずくです。不慣れなことも多いかと思いますが、よろしくお願いいたします」
自分の声ではないような、高く、細い声が教室に響く。
一瞬の静寂。そして、誰かが小さく「綺麗……」と呟くのが聞こえた。
私は内心で自嘲した。
綺麗、だって?
貴方たちが今見ているのは、嘘と欺瞞で塗り固められた抜け殻に過ぎないというのに。
だが、その自嘲は、次の瞬間に霧散した。
視線の渦の中に、一つだけ、他とは明らかに違う「重み」を持った眼差しがあった。
窓際の特等席。
春の陽光を背負い、まるで絵画の中から抜け出したような、完璧なまでの美しさを湛えた少女。
白石ルナ。
学院の象徴であり、生徒会長を務める、非の打ち所のない規範。
彼女としずく――いや、和志の視線が、交差した。
その瞬間、私の記憶の基準レイヤーが、激しく火花を散らした。
数年前、炎と瓦礫の中で見た、震える少女の面影。
あの時、私の腕の中で命を繋ぎ止めていた、壊れそうなほどに熱い体温。
彼女は、何も知らないはずだ。
目の前にいる「蒼井しずく」が、かつて自分を救い、そして自分を裏切った「和志」であることを。
ルナがゆっくりと立ち上がり、こちらへと歩み寄ってくる。
一歩ごとに、彼女が纏う百合の香りが濃くなっていく。
私は逃げ出したくなる衝動を、必死に抑え込んだ。
彼女の前に立てば、私の偽装など、あっという間に剥がされてしまうのではないか。
彼女の澄んだ瞳に見つめられれば、私の内側にある「男」としての醜い願望が、すべて暴かれてしまうのではないか。
だが、ルナは、私の予想を裏切る行動に出た。
彼女は私の目の前で足を止め、春の光を凝縮したような、慈愛に満ちた微笑みを浮かべたのだ。
「待っていたわ、しずくさん」
鈴を転がすような、透き通った声。
彼女はためらうことなく、私の右手を取った。
触れ合った手のひらから、電流のような衝撃が走る。
その温もりは、私の偽装のフィルターを容易く突き破り、深層にある和志の意識を揺さぶった。
「貴方が来るのを、ずっと心待ちにしていたの。今日から、私が貴方の力になるわ」
彼女の瞳の中に、疑いの色は微塵もなかった。
あるのは、深い、あまりにも深い、純粋なまでの信頼。
私は、自分の呼吸が止まりそうになるのを感じた。
ルナに笑われることが、今の私にとって最大の「死」であると、本能が悟った。
この笑顔。
この温もり。
それを守るためなら、私は、この偽りの制服を一生脱がないことだってできる。
例えそれが、彼女を騙し続けるという、最悪の背信であったとしても。
「……ありがとうございます、ルナさん」
私は、震える声を隠すように、彼女の手を握り返した。
これが、始まりだ。
潜入者としての任務、恩人としての贖罪、そして――決して叶うことのない、歪な愛の形。
白百合の香りが立ち込める教室の中で、私は最初の嘘を、自らの血で刻むように飲み込んだ。
窓の外では、風に舞った白百合の花弁が、まるで祝祭のように、あるいは葬列のように、静かに降り注いでいた。
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