第3話 鏡花水月
私は、ひとつの仮定を紙の端に書き留めた。
――願いのない世界。
それは、救いのない世界ではない。
奇跡が起こらないだけの世界だ。
病は存在する。
争いも、貧しさも、理不尽も消えない。
ただ、そこでは誰も「願えばどうにかなる」とは考えない。
想像の中で、私はひとりの人間を歩かせる。
彼は特別な力を持たない。
選ばれし存在でもない。
ただ、守りたいものがあった。
それは人かもしれないし、
約束かもしれないし、
あるいは、もう戻らない日々かもしれない。
危機が訪れる。
道は二つに分かれる。
どちらを選んでも、失うものがある。
願いがあれば、
「両方を救ってほしい」と言えただろう。
だが、この世界では願っても何も起こらない。
だから彼は、立ち止まる。
考える。
どちらが正しいかではない。
どちらを選ぶか、だ。
選べば、結果が残る。
救えなかったものは、確かに失われる。
誰かのせいにはできない。
奇跡が来なかったせいにもできない。
それでも彼は、選ぶ。
手を伸ばす。
震えながら、掴む。
助かったものは、
「運良く救われた」のではない。
誰かが、そう決めたから、そこに在る。
全てを守ることはできない。
けれど、守ったものは、確かに“選ばれた”のだ。
私は、ペンを止めた。
願いがあれば、
この物語はもっと楽だっただろう。
犠牲もなく、
後悔もなく、
誰も傷つかない結末が用意されたかもしれない。
けれど、それは本当に
“選んだ”と言えるだろうか。
願いのない世界は、不親切だ。
残酷で、やり直しも効かない。
それでも――
そこでは、人は自分の人生を
誰かに委ねずに生きている。
願いが消えた世界で、
失われるのは奇跡だ。
だが、残るものがある。
選択。
責任。
そして、意味。
私は最後に、こう書き添えた。
――願いは、人を救うことがある。
――だが、生きる理由を作るのは、選択だ。
紙束を閉じる。
この思考実験に、正解はない。
ただ、問いが残るだけだ。
それでも私は思う。
すべてを叶える世界より、
選ばなければならない世界の方が、
人は――人でいられるのかもしれない。
鏡花水月 綴葉紀 琉奈 @TuduhagiLuna
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