第3話 ただ、軽い

誰にも期待されなくなって、しばらくが経った。


 日付はちゃんと進んでいるはずなのに、

 時間の感覚が曖昧になっていった。


 朝は来る。

 学校にも行く。

 でも、「始まった」という感じがしない。


 以前の私は、

 起きた瞬間から何かに追われていた。


 弟を起こさなきゃ。

 忘れ物がないか見なきゃ。

 学校では頼まれごとがあるかもしれない。

 誰かが困っていたら、気づかなきゃ。


 今は、その全部がない。


 母は、私に用事を頼まなくなった。

 弟は、私を呼ばなくなった。


 学校でも、同じだ。


 グループ分けでは、自然と端にいる。

 相談事は、別の誰かに向かう。


 誰かが困っていても、

 私のところには来ない。


 最初のうちは、それがありがたかった。


 肩の力を抜いていられる。

 何も背負わなくていい。


 ――楽なはずだった。


 でも、ある日、ふと気づいた。


 私はもう、自分から動こうとしていない。


 手伝おうとも思わない。

 声をかけようとも思わない。


 「どうせ期待されていないし」


 その考えが、

 自然に、当たり前のように浮かぶ。


 授業中、先生が問いかける。


「誰かわかる人?」


 前なら、答えられなくても手を挙げていた。

 場を止めたくなかったから。


 今は、挙げない。


 挙げる理由が、ない。


 昼休み、友達が楽しそうに話している。

 私は少し離れた席で、弁当を食べる。


 寂しくはない。

 でも、楽しくもない。


 自分がそこにいる理由を、

 考えなくてよくなった代わりに、

 思い出せなくなった。


 放課後、家に帰る。


 弟は部屋でゲームをしている。

 母はキッチンで夕飯の準備をしている。


 誰も、私を呼ばない。


 それが、普通になっていた。


 ある日、母がぽつりと言った。


「最近、静かね」


 責める声じゃなかった。

 心配する声でもなかった。


 ただの感想。


「そうかな」


 私はそう返した。

 それ以上、言葉が続かなかった。


 本当は、

 何を言えばいいのか分からなかった。


 何をしたいのか。

 何を期待してほしいのか。


 期待されたくない、と願った。

 それは、確かに叶えられた。


 誰も、私に何も求めない。


 その代わり、

 私も、何も求められなくなった。


 やる気が起きない。


 頑張る理由がない。

 失敗する理由もない。


 世界は、驚くほど平らだった。


 ある夜、ベッドに横になって、天井を見つめる。


 電気を消した部屋は、暗い。

 でも、目を閉じても、何も浮かばない。


 昔は、

 「明日はこれをしなきゃ」

 「ちゃんとやらなきゃ」


 そんな考えが、嫌でも湧いてきた。


 今は、何もない。


 怖くない。

 苦しくもない。


 ただ、軽い。


 重力を失ったみたいに、

 自分がどこにも固定されていない。


 ――ああ。


 期待されることは、

 重荷でもあったけれど、

 確かに、私を地面に繋ぎ止めていた。


 それに気づいたとき、

 もう、戻り方が分からなかった。


 誰かに期待してほしい、とは思えない。

 期待されたら、またあの場所に戻ってしまう。


 でも。


 期待されない私は、

 どこへ行けばいいのだろう。


 答えは、浮かばない。


 布団の中で、私は静かに目を閉じた。


 落ちることも、上がることもなく、

 ただ、その場に留まっている。


 それが、私の選んだ姿だった。


 期待されない世界で、

 私は今日も、静かに存在している。

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無重力の星 綴葉紀 琉奈 @TuduhagiLuna

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