第2話 軽い
目が覚めたとき、少しだけ心が軽い気がした。
理由は分からない。
よく眠れたわけでもないし、嫌な夢を見なかったわけでもない。
ただ、胸の奥にいつもあった重りが、ひとつ外れたような感覚。
それだけだった。
キッチンから、包丁の音が聞こえる。
母が朝ごはんを作っている音だ。
――そろそろ、呼ばれるはず。
私は布団の中で、無意識に身構えた。
「お姉ちゃん、弟起こしてきて」
いつもなら、そう言われる時間だ。
弟は朝が弱い。何度呼んでも起きないから、結局私が部屋に行く。
でも、今日は声がかからない。
不思議に思いながら部屋を出ると、母が振り返って言った。
「おはよう」
それだけだった。
「……弟は?」
聞いてみると、母は手を止めずに答える。
「まだ寝てるわよ」
それで終わり。
起こして、とは言われなかった。
私は一瞬、どうしていいか分からず、立ち尽くした。
でも、母は特に気にした様子もなく、フライパンを揺らしている。
席につく。
朝ごはんは、ちゃんと用意されている。
いつもと同じメニューのはずなのに、
自分の分だけ、少し遠くに置かれている気がした。
弟は、結局起きてこなかった。
でも、誰もそれを気にしていない。
学校へ行く道も、静かだった。
後ろから呼ばれない。
荷物を持ってほしいとも言われない。
「ちょっと待って」と引き止められることもない。
教室に入ると、さらにそれを実感する。
「おはよう」
挨拶は返ってくる。
でも、それ以上はない。
いつもなら、
「これ、あとで手伝って」
「ちょっと聞いてほしいんだけど」
そんな声が、自然に飛んできた。
今日は、誰も何も言わない。
席についても、誰も隣に来ない。
それなのに、孤立している感じもしなかった。
ただ、空いている。
授業中、先生が資料を配り終えたあと、少し考えるような間があった。
私は反射的に立ち上がりかけて、止まった。
――あ。
今日は、当てられていない。
先生はそのまま授業を続けた。
何事もなかったように。
昼休み、いつもなら自然と誰かの輪に入っている時間。
私は一人で弁当を食べていた。
誰も、声をかけてこない。
それが、嫌じゃなかった。
むしろ、ほっとした。
責任がない。
期待がない。
「ちゃんとしなくていい」。
頭の中が、久しぶりに静かだった。
放課後、委員会の仕事もなかった。
引き止められない。
「助かる」とも言われない。
家に帰ると、弟は先に帰ってきていた。
母は、こちらを見て言った。
「今日遅刻してたのよ、あの子。」
それだけ言って、テレビをつけた。
私は、ソファの端に座る。
誰も隣に来ない。
誰も話しかけない。
音だけが流れていく。
静かだ。
静かすぎる。
夜、布団に入ってから、ようやく気づいた。
今日は、一度も「ありがとう」を言われていない。
でも、怒られてもいない。
困られてもいない。
それなのに、胸の奥が少しだけ、冷えていた。
――私がいなくても、全部回っている。
それは、安心できる事実のはずだった。
ずっと欲しかった状態のはずだった。
なのに、どうしてだろう。
目を閉じると、
自分の輪郭が、少しだけ薄くなった気がした。
軽くなったはずの体が、
どこか遠くへ浮いていきそうで、
私は布団をぎゅっと掴んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます