抱きしめる
🍀四葉(マメ科)
抱きしめる
朝の光は、僕の顔に花びらのように落ちる。健太くんはまだ眠っていて、彼の胸の上下に重なる布の波を、僕はずっと覚えている。そこにある温度、そこにある鼓動、そこにある手。
僕は彼が大好きだ。
僕はくまのぬいぐるみで、動くことができない。話すこともできない。ただここにいて、抱きしめられるだけだ。それが僕の役割で、それ以外のことを考えたことはなかった。
健太くんの部屋には、朝になると必ず光が差し込む。カーテンの隙間から細い線のように。その線は時間とともに太くなって、やがて部屋全体を満たす。僕は壁際に置かれているから、光が僕に届くまでには少し時間がかかる。でもそれでいい。僕は待つことに慣れている。
健太くんが目を覚ますと、彼は必ず僕を探す。まだ目がよく開いていない顔で、手を伸ばす。その手が僕の耳を掴んで、引き寄せられる。柔らかい布団の中に、僕は沈む。健太くんの匂いがする。ミルクと、石鹸と、少しだけ汗の匂い。
「くまくん」
彼はそう呼ぶ。僕には名前がある。それだけで、僕は幸せだった。
●
健太くんは泣く子だった。よく泣いた。夜中に泣いて、朝方に泣いて、昼間も泣いた。
保育園で誰かに叩かれたとき、健太くんは帰ってきて僕を抱きしめた。涙が僕の頭に落ちて、布地に染み込んでいく。健太くんの手は小さくて、力いっぱい僕を掴んでいるのに、それでも震えていた。
「くまくん、痛かったよ」
彼は僕に話しかける。僕は何も答えられない。ただそこにいるだけだ。でも健太くんは僕を抱きしめ続けて、やがて泣き止む。
お母さんが部屋に入ってくる。「健太、大丈夫?」と聞く。健太くんは頷くけど、まだ僕から離れない。お母さんは優しく頭を撫でて、部屋を出ていく。
健太くんは一人で耐える。そういう子だった。
小学校に入ると、泣く回数は減った。でも抱きしめる力は強くなった。
ある日、健太くんは算数のテストで悪い点を取った。先生に怒られたらしい。彼は家に帰ると、ランドセルも下ろさずに僕を抱いた。ぎゅっと。息が詰まるくらい強く。
「くまくん、僕、馬鹿なのかな」
そんなことはないよ、と僕は思う。でも声は出ない。ただ抱きしめられているだけだ。健太くんの頬が、僕の耳に押し付けられる。熱い。
夜になって、健太くんは宿題をする。何度も消しゴムで消して、何度も書き直す。最後にはノートがぐしゃぐしゃになって、健太くんは泣き出した。静かに。声を殺して。
お父さんもお母さんも、リビングにいる。健太くんは自分の部屋で一人で泣いている。そして僕を抱く。
僕にできることは、抱きしめられることだけだった。
●
健太くんが四年生になった年の冬、彼の祖父が亡くなった。
健太くんは葬式から帰ってくると、何も言わずに部屋に入った。そして僕を抱いて、ベッドに倒れ込んだ。
泣かなかった。ただ、ずっと震えていた。
僕は健太くんの腕の中にいた。彼の心臓の音が聞こえる。速い。不規則。怖がっているんだと思った。
「くまくん」
健太くんが囁く。
「おじいちゃん、もういないんだって」
僕は知っている。お母さんが電話で泣いているのを聞いた。お父さんが「大丈夫か」と健太くんに何度も聞いているのも聞いた。
でも健太くんは、誰にも本当のことを言わなかった。大丈夫だと答え続けた。そして部屋に戻って、僕だけに本当のことを話す。
「怖いんだ」
健太くんの声が震える。
「僕も、いつか」
その先を、彼は言わなかった。
僕は初めて思った。抱きしめ返したい、と。
健太くんの背中に手を回したい。頭を撫でたい。大丈夫だよ、と言いたい。でも僕には手がない。腕がない。声もない。
僕はただのぬいぐるみで、布と綿でできていて、動くことができない。
健太くんはずっと僕を抱いていた。夜が更けても、朝が来ても。お母さんが「ご飯よ」と呼んでも、健太くんは部屋から出なかった。
僕は抱きしめられていた。それだけだった。
でも、抱きしめ返したかった。初めて、そう思った。
●
健太くんが中学生になると、部屋の模様替えをした。
僕は本棚の上に置かれた。ベッドからは少し離れた場所。健太くんはもう、毎晩僕を抱いて寝ることはなくなった。
「くまくん、ごめん。もう子どもじゃないから」
健太くんはそう言って、照れたように笑った。でも僕を捨てることはしなかった。本棚の上、一番目立つ場所に置いてくれた。
それでよかったはずだった。でも、何かが違った。
健太くんは忙しくなった。部活があって、塾があって、友達と遊ぶ約束があって。部屋にいる時間が減った。いても、スマホを見ているか、音楽を聴いているか、勉強をしているか。
僕を見ることはなくなった。
ある日、健太くんの友達が部屋に来た。
「え、まだぬいぐるみなんか持ってんの?」
友達が笑った。健太くんは慌てて「いや、昔のやつだから」と言い訳をした。その夜、健太くんは僕を本棚の奥に移した。見えないように。
僕は暗い場所に置かれた。埃が積もった。健太くんの手が僕に触れることは、ほとんどなくなった。
僕は何もできなかった。
抱きしめ返すこともできなかったし、今は抱きしめられることもなくなった。僕はただの物になっていた。役割を失った、ただの布と綿の塊。
春が来て、夏が来て、秋が来た。僕は本棚の奥でそれを感じていた。窓から差し込む光の角度で、季節がわかった。
健太くんは成長していた。声が低くなった。背が伸びた。友達と笑う声が、以前より大人びていた。
僕は取り残されていた。
そして、それでいいのだと思い始めていた。健太くんにはもう、僕は必要ないのだ。
●
高校二年の冬、健太くんの部屋に弟が入ってきた。
「兄ちゃん、いる?」
小学生の弟。名前は翔太という。健太くんより八つ下だ。
「どうした」
健太くんが振り向く。翔太は泣いていた。
「学校で、友達に嘘つきって言われた」
健太くんは少し困った顔をして、それから「こっち来い」と手招きした。翔太が健太くんの隣に座る。
健太くんは何も言わなかった。ただ、翔太の頭に手を置いた。ぽんぽんと、優しく叩く。
「大丈夫」
健太くんがそう言った。
「お前は嘘つきじゃない」
翔太が泣き止まない。健太くんは翔太の肩を抱いた。ぎゅっと。僕がかつて健太くんを抱きしめられなかったように、健太くんは翔太を抱きしめた。
「辛かったな」
健太くんの声が優しい。
僕は本棚の奥から、その光景を見ていた。
健太くんの手が、翔太の背中をさすっている。あの小さかった手が、今は誰かを支えている。健太くんは一人で立っている。誰かを抱きしめる側になっている。
僕が抱きしめ返せなかったから。
僕が何もできなかったから。
健太くんは、自分で誰かの手を探すことを覚えたのだ。
翔太が泣き止んだ。健太くんが「大丈夫だよ」ともう一度言って、翔太は頷いた。二人は部屋を出ていった。
僕は一人、本棚の奥に残された。
でも、何かが変わった。胸の中に、温かいものがあった。
健太くんは強くなった。僕が何もできなかったからこそ、健太くんは人の手を求めることを学んだ。そして今、その手で誰かを支えている。
支えるとは、代わりに立つことではない。そばにいることだ。受け止めることだ。
僕はそれをしてきた。ずっと。
●
ある日、健太くんが部屋を片付けていて、僕を見つけた。
「あ、くまくん」
健太くんは僕を手に取った。埃を払って、僕の顔を見る。
「久しぶり」
彼は笑った。昔とは違う、大人の笑い方。でも優しい笑い方。
健太くんは僕をベッドの上に置いた。そして少しだけ、僕の頭を撫でた。
「ありがとな」
何に対してのありがとうなのか、僕にはわからない。でも、健太くんの手は温かかった。昔より大きくて、昔より強くて、でも昔と同じくらい優しかった。
健太くんは部屋を出ていった。僕はベッドの上に残された。窓から光が差し込んでいる。暖かい光。
僕は思う。
僕は健太くんを抱きしめることはできない。
けれど、きっと、それでいいのだ。
抱きしめる 🍀四葉(マメ科) @sirotsumegusa
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