第2話 彼女

激しく肩を上下させながら、彼女は床にへたり込んだ。汗で濡れたこめかみを無意識に拭って息を整える。


準備は整った。大丈夫。きっと最後までやり遂げられる。


すぐ傍らに在る大きな手を引き寄せて頬を寄せてみる。ヒンヤリした感触が心地よい。

男性にしては細めの長い指。少し硬い筋肉質の掌。

大昔に失った父の手を思わせる彼の手。

その手に触れられるのが、いつだって好きだった。


ふと初めて会った日のことを思い出す。

ちょうど一年前。あの日もこんな寒い夜だった。

残業を押しつけられて一人残っていた彼女に、やはり仕事で会社に戻ってきた彼が声をかけてくれたのだ。

ええと、よかったら一緒に帰ろうか?もう最終がなくなるよ、と。

レディースコミックに出てくるような出会い。とりたてて珍しくもないエピソード。


日本人離れしたほりの深い顔立ち。細身だが鍛え上げられた体躯。常に穏やかな笑みを絶やさず人当たりはいいが、仕事においてはクールで自他ともに厳しい上司。一流大学の経済学部をトップで卒業した出世株だとの噂を聞いたことがあった。

一言でいえば、雲の上の人。

それがどうして『こんな仲』になってしまったのか。


足早に駅に向かった深夜近くの繁華街。

きっかけは何だったか。

なにげなく交わした会話で、お互い母子家庭で育ったという共通点を見出したことが始まりだったのかもしれない。

幼少時に父を病で亡くした彼には、彼女の境遇が他人事には思えなかったのだろう。


小学校に通い始める直前に、彼女は父を失った。ある日突然に。祖母の家に遊びに行って戻ってくると、父はどこにもいなかった。

上司の妻と駆け落ちし、挙句の果てに首を吊ったのだと、後になって母の口から聞かされた。


正直なところ、もう顔もはっきりとは思い出せない。

けれど、優しく頼れる父だったのだ。少なくとも幼い彼女にとっては。

取り留めもないおしゃべりに付き合ってくれ、母に内緒でよくお菓子やおもちゃを買ってくれた。

大好きな父だった。真実を知らされるまでは。


彼には、交通事故で父を亡くした、ととっさに嘘をついた。

お互い苦労したんだな、と彼が苦く笑ったのを覚えている。


他に本命がいるのはわかっていた。

彼は野心家だ。努力家で優秀でもある。老いた実母に贅沢をさせてやりたいと願っているのも知っている。

彼がとてもモテることも。


「私とのこと、終わりにするつもりだったんでしょ」


囁いて、歪んだ唇にそっと口づける。

むしゃらに生きてきた。父を恨み、恋しがり、泣いてばかりいた母と。母を亡くしてからは誰にも頼らずに一人で。

だけど、もう、あの孤独に戻ることなどできない。離れたくない。他の女と暮らす姿なんて想像するだけで耐えられない。

だから…


「愛してるの」


だから、行かないで。


「愛してるわ」


だから、最後はあなたの手で。


項垂れた彼の頬に今一度口づけて、彼女は彼に背を向けた。彼の手をまさぐり、しっかりと握りしめた。








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2026年1月20日 17:00

あなたの愛しい手 浬由有 杳 @HarukaRiyu

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