あなたの愛しい手
浬由有 杳
第1話 彼
「いらっしゃい。待ってたわ」
扉が開いたとたん、室内からあふれ出す暖かな空気。鼻孔にひろがる美味しそうな料理の匂い。
彼が好きなすじ肉をじっくり煮込んだ具沢山のビーフシチューの香り。
「ワイン、買ってきたよ。ついでに総菜もいくつか」
いつも通りに出迎えてくれた笑みが後ろめたくて、彼はさりげなく目を逸らした。
「ありがとう」
落とした視線の先で、デパートの紙袋を彼女の華奢な手が受け取った。
すんなりと伸びた指先に短く整えられたピンクの爪。
華美ではないが綺麗な手だ。
生活苦が滲んだ母の荒れた手とも、流行りのマニュキュアが施された婚約者の白く美しい手とも違う。
彼が大好きな働き者の、よく手入れがされた柔らかな手。
職場では無口で優秀な事務員である彼女は、プライベートでは案外とおしゃべりで家庭的だ。少なくとも彼と二人っきりの時は。
彼女のアパートはいつも小綺麗で居心地がいい。手料理は絶品だ。
おそらくその事実を知っているのは、彼だけだろうが。
(本当に彼女と結婚できればいいのに)
ちらりとそんな考えが脳裏を過る。
(そして、一介のサラリーマンで一生を終える?次期社長としての未来に背を向け、つつましくもつまらない人生を送るのか?)
愛しているのだとは思う。しかし、もう遅い。社長令嬢との婚約が決まった今、彼にはもはや野心を捨てることは不可能だ。
幸い、彼女との関係は今のところ誰にも知られてはいないはず。
「おなか空いてるでしょう?すぐに用意できるから、座ってて」
背広を脱いでくつろぐと、あらかた準備の整ったテーブルを一瞥する。
並んでいるのは、ややミスマッチな取り合わせ。ミモザサラダに肉じゃが。そしてほうれん草のお浸しにニンジンのタラコ和え。
すべて彼の好物だ。
すぐに湯気の立つビーフシチューと豪華なデパートの総菜がそれに加わった。
「じゃあ、出会って最初の記念日に乾杯しましょう」
笑みと共に煌めくワイングラスが二つ、コトリとテーブルに並んだ。
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