第3話:篝火(かがりび)の契約

森の広場。

東の空が白み始め、朝霧が立ち込めている。

若い狐は、自分の尻尾の先に灯った小さな炎を、不思議そうに見つめ続けていた。


一晩中、この炎は消えなかった。

枯れ葉に移りそうになると、まるで意思があるかのように炎が小さくなり、逆に寒さを感じると暖かく膨らむ。


「お前がやっているのか?」


狐が尋ねると、彼の横に浮いている「白い毛玉(使徒)」が、触手で自分の体を毛づくろいしながら答えた。


『いいえ。貴方がやっているのです。貴方の「焦がしたくない」「温めたい」という無意識の願いが、魔力を制御しているのですよ』


狐は鼻を鳴らした。自分の中に、こんな繊細な願いがあったとは信じ難い。

彼は試しに、近くの藪に隠れていた野兎を見つけ、狩猟本能のままに飛びかかろうとした。


「喰ってやる!」


殺意が湧いた瞬間、尻尾の炎が爆発的に膨れ上がり、狐自身の背中を焦がした。


「アチッ!?」


狐は慌てて地面を転がり、火を消そうとした。


『言ったでしょう』


使徒は冷静に、転げ回る狐を見下ろしている。


『その火は「守るための力」。感情に任せた殺意や、無秩序な欲望に使うと、主である貴方自身を焼きます。それが最初の契約ルールです』

「じゃあ、どうやって狩りをしろって言うんだ。俺は腹が減ってる」


背中の毛を焦がした狐が、不機嫌そうに唸る。

使徒はふわりと浮き上がり、森の奥――生き物たちが本能的に避けてきた「禁足地」の方角へと進んでいく。


そこは、森の緑が唐突に途切れ、大地が赤黒く変色した「枯れた荒野」だった。

かつて4属性の均衡が崩れ、世界が滅びかけた時、行き場を失った膨大な「火の魔力」が大地を食い破って噴出し、そのまま呪いのように居座った場所だ。


『狩りは牙と爪でやりなさい。火は、ここを癒やすために使います』


使徒は、荒野の中央に突き立つ巨大な「紅蓮の結晶柱(クリスタル・オベリスク)」を指差した。

それはかつて神々(人類)が、暴走する地脈を封じようとして突き立てた「くさび」の成れの果てだ。

だが、封印は不完全だった。

結晶の根元からは、ドロリと濁った「黒い炎(穢れたマナ)」が滲み出し、周囲の空気を歪ませている。


それは燃焼による熱ではない。

触れれば肉体だけでなく魂ごと腐り落ちるような、「滞留し、腐敗した火の成れの果て」だった。


『この黒い炎は、星にとっての「よどみ」……毒です。かつて均衡を失った火の力が、循環せず、ただそこに在り続けて腐っている』

「……毒を、どうしろって言うんだ」

『喰らうのです。貴方ならこの腐った火を体内に取り込み、濾過ろかし、清浄な「生命の熱」へと変換して空へ還すことができる』


狐はおっかなびっくり、黒い炎が渦巻く結晶の足元へ近づいた。

脂っこい煤のような不快な気配が肌を刺すが、不思議と尻尾の炎がそれを吸い込み、体が熱く脈打つのを感じた。


(力が……湧いてくる。だが、苦しい)


彼は直感した。

これはただの食事ではない。毒を飲み干し、己の身をフィルターとして世界を浄化する、苦痛を伴う「儀式」なのだと。


狐は灼熱の地面に座り込み、前足を揃えた。そして、本能的に最も威厳のある姿勢をとり、その場に鎮座した。

その姿を見て、使徒(ムーン・キーパー)が満足げに触手を揺らした。


『覚悟が決まったようですね。……ならば、貴方はもう「ただの獣」ではありません』


使徒が狐の額――白い骨格のような模様が浮き出ている部分――に、そっと触手の先を触れさせた。

温かい光が脳裏に流れ込み、狐の意識の中に「自分」という輪郭が鮮明に浮かび上がる。


『契約には「鍵」が必要です。世界でお前を一意に定義するための音。「名」を与えましょう』

「……な?」


狐が初めて聞く概念に戸惑い、喉を鳴らす。

使徒は空中に光の文字を描き、厳かに告げた。


『貴方の名は――「ホムラ(焔)」。

澱んだ火を喰らい、清き炎として還す者。それが貴方の魂の形です』


「ホムラ……」


狐がその音を口にした瞬間、全身の毛が粟立つような感覚が走り、体内の魔力回路がカチリと音を立てて噛み合った。

世界が、先程までより遥かに鮮明に見える。

「ホムラ」という音が、彼を野生の群れから切り離し、唯一無二の知性体へと変貌させたのだ。


シュボッ!


呼応するように、ホムラの周囲に浮かんでいた火の玉が形を変える。

それは2本の黄金色の「陽炎の指(ヒート・ハンド)」となり、主の意思を祝福するように、胸の前で厳かに掌を合わせた。


ホムラは、その奇跡を噛みしめるように空を仰ぎ、長く、美しい遠吠えを上げた。

紅蓮の荒野の中心に、巨大な黄金の炎が灯る。

黒い穢れを吸い上げ、光へと変えて空へ昇らせるその柱は、文明の始まりを告げる篝火(かがりび)だった。

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滅びた星の最後の管理人は、月から「けもの」たちに文明を授ける。 ~10万年後の箱庭育成、あるいは愛した過去への挑戦状~ 編纂ミネストローネ @Montesquieu

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