カラスの婚姻
イエロウ
第1話
…
お前たちは今、どこにいる。
空の彼方か、山の天辺か。
ぼくはもう、随分と長く生きたのだ。
笑っていないで、早く迎えにきてくれ。
それとも
骨が折れることだ。しかたがない、見にいってやろう。
*
カラスが、鳴いた。
枯れ木のように見えた老人が、いきなり顔をあげた。
生あくびで車椅子のボタンを眺めていたので、反射的に飛びあがった。
「びゃっ!」
老人は言った。
「若者よ、わたしには
「まさか、起きてると思わなかったもんで」
かつて多くの娘たちに慕われつつ独身を通し、酔狂な発明家として鳴らしたという。
彼は端正な面影の残る口もとを歪め、
「まさかとはなんだ。日がな活動なぞしたら、燃え尽きてしまうだろう。おまえ、それでもひ孫か」
「ひ孫ですよう。怒らないでください、おばさんに叱られる」
老人――笹木文彦は目をすがめ、障子の向こうを見やる。
「…ひ孫の
「誰も」
「声がしたと思ったが」
「カラスですよ。さっきから庭にいるみたいで」
「カラス?」
枯れたような老人の目に、異様な輝きが点火された。
彼は骨ばった指から、大きな石の乗った銀の輪を引き抜いていった。
「
「え、それ宝石じゃないんですか。プラチナ? ダイヤモンド?」
「光りものなら、なんでもいい」
「ちょっと待ってください。おばさーん、曾祖父さんが変なことを」
「知らんのか。笹木の家はカラスを
「ちょっと、何言ってるんスか」
「人間としての名前は、
「あの…、日本昔話じゃないんですから」
「証拠がある」
文彦は重々しく言うと、黒い紋付の袖の刺繍をひ孫に示した。
雀三羽と笹を
「わたしは病弱でな。妹の
「なっ、なんです、それ…」
「直系の子孫は、浅黒い肌とカラスの濡れ羽色の真っ黒な眉と髪を持っている。お前の父親も爺さんもそうだろう。一族の写真で確かめてみるんだな」
「変なこと、言わないでください…!」
まったく、落ち着きのないことだ。
文彦はため息をつき、自ら指示して開発させた車椅子のボタンを押した。
するすると障子が開く。
白に包まれた庭が見えた。
いつの間にか、地表は雪に覆われている。
庭木も笹も、白と青灰色の濃淡で編んだ帽子をかぶり、口をつぐんでいる。
一点の黒が、口を開いて「アア…」言った。
文彦はうなずき、手にしたものを庭に放った。
黒い鳥はきらめきをくわえ、満足げにふくらんだ。
文彦は腕組をし、にやりとする。
「ひ孫同士、仲良くさせてやろうと思ったのに」
*
…ちゃぷる、と桶の中の水が跳ねた。
使いこまれた木目はなめらかで、黒く水を吸っている。
すべすべして、とても気持ちがいい。
大きな樽に水を張って、日がな一日浸かっていたい。是非にもそうしたいところだけれど。
「…そうもしていられないわ」
少女はつぶやく。
マメのできた手に、桶の取手をぶら下げる。数歩進んで、よろめいた。
「…水って。重いのね…」
裏庭の井戸から水を汲み、勝手にある水瓶に貯めるという作業の反復だ。
離れた川から汲んでくるわけでもない。つるべは新しく、軽々と動く。
使用人の仕事を見ていたときは、簡単そうに思えたのに。
水運びが重労働であるからには、水風呂は大層な贅沢であるに違いない。
幼い自分をたらいに張った水に入れてくれ、ぬるくなると新しい水を足してくれた。
白井のじいの手の、やわらかな皺とぬくもりを思いだす。
「…っ」
少女は頭を振り立てる。
艶のある黒髪が勢いよく広がり、やがて萎れて顔を覆った。
欲張って水を汲みすぎたのだ。こんなに重いと思わなかったから。
半分に減らそう。
でも、捨てるのはもったいない。
元気のない庭木にあげよう。
その前に、少しいただこうかしら。のどが渇いた。
華奢な手をすぼめ、水を受ける。
水面に溢れる緑が映る。
北の地の庭木たちは、初夏までつつましく浅葱色を守っている。
盛夏になるとようやく孔雀色に近づくが、旺盛な黒翠の繁茂を示すことはない。早い秋が、若木色の林を茜や金に染めてしまうからだった。
肌に貼りつくはずの着物にも、一筋の風がまつわるような涼しさがある。
兄の文彦は一家で避暑に訪れたこの地がいたく気に入り、移住を望んだ。父が買い入れた思い出の別荘で、日々を過ごすことを願った。
綾女は兄についてきた。
ほかに望みはなかった。兄の希望を叶えることのほかには。
井戸には良い水が湧く。周囲に森が多いからだ。
青いように透き通る井戸の底を覗き、汲んでもらったものを口にした文彦は、生き返るようだと笑った。
そう、ほんとうにおいしい水なのだ。
その思いが、綾女を駆り立てている。
水瓶いっぱいに汲み置いて、好きなだけ兄に飲ませてやりたかった。
不意に、手首を横合いから掴まれた。
「…へっ!?」
乙女にはふさわしくない、変な声が出た。
黒っぽい着物を着た青年が、目の前にいた。浅黒い肌は日焼けのせいだろうか。
…いつ、家に入ってきたのだろう。門もある。かんぬきは、下ろしていなかったかもしれないけれど。
少女の眼尻が、つりあがる。
「…あなた、誰よ」
「
「…聞いていないわ。帰って
言うなり、つかまれたままの手を取り返す。
断りもなく触るなんで、ぶしつけだわ。
切り揃えた前髪の下から、瞳を燃やして睨みつける。
男はどこ吹く風で、桶をひょいと持ちあげた。
「こいつを、お勝手に運べばいいのか」
「頼んでないわよ、そんなこと」
肩を怒らせる少女を無言で見下ろすと、男はさっさと家の方へ歩きだしてしまった。
自然と追いかける格好になったのが、癪にさわる。
「…あのねえ、あなた誰よっ」
「黒田九郎。今日からこの家の下男だ、よろしくな」
《続く》
カラスの婚姻 イエロウ @yellow_snap_dragon
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。カラスの婚姻の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます