第3話:理の衝突(前編)

 その男が奥州の境界を越えたとき、一帯の空気がわずかに「薄く」なった。

 石田三成。

 豊臣秀吉という巨人の右腕にして、日本という国を、寸分狂わぬ「検地」によって管理しようとする、稀代の能吏。彼が率いる一団は、華美な装飾を排し、ただひたすらに「正確な物差し」と「寸分狂わぬ枡(ます)」を携えていた。


 「……異常だな」


 三成は、馬上から低く呟いた。

 視界に広がる伊達領は、表向きは雪に閉ざされた貧しき北国だ。

 だが、彼の官僚としての皮膚が、微かな違和感を捉えていた。街道を往来する民の足取りが、三万石の領地のそれにしては、あまりに力強い。何より、行き交う荷の中に、米以外の「重み」が混じっている。


 三成は、懐から一冊の帳簿を取り出した。秀吉から預けられた、天下のすべてを記した「太閤検地帳」である。そこには雄勝の地名はあっても、石高は「無」と記されていた。


 「空白がある。……計算の合わぬ空白は、いずれこの国の法(のり)を腐らせる」


 三成の瞳は、潔癖なまでの正義感で燃えていた。彼にとって、隠し石高とは単なる不法ではない。主君・秀吉が作り上げた「唯一の秩序」に対する、剥き出しの叛逆であった。


 その夜。政宗は、米沢城の最奥、地図すら置かれていない私室にいた。

 目の前には、雄勝から極秘裏に呼び戻された楓が、影のように控えている。部屋を照らすのは、楓が持ち込んだ海獣の油を用いた、煤の出ない青白い炎だけだ。


 「……三成が来た。貴様の首を、算盤ごと撥ねに来たぞ」


 政宗は、楓の顔を覗き込むようにして言った。その距離は、主従のそれよりも近く、共犯者のそれよりも危うい。政宗の手が、楓の顎をわずかに持ち上げる。冷たい指先が彼女の肌に触れるが、楓の鼓動は一拍も乱れなかった。


 「計算に、間違いはございませんか?」


 楓は、至近距離で政宗の独眼を見つめ返した。

 

 「間違いなどない。三成は、貴様の『誤差』を突き止めるまで、この奥州から離れぬだろう。……どうする。今ならまだ、貴様を安東の残党として斬り捨て、証拠の港を焼き払うこともできる。俺の天下を守るために、な」


 政宗の指先に、わずかに力がこもる。楓がここで怯えれば、二人の契約はそこで終わる。

 だが、楓は政宗の指を、自らの冷えた手で包み込んだ。


 「政宗様。石田三成様は『正解』を探しに来たのではありません。彼は『秩序』を探しに来たのです。……ならば、彼には、世界で最も美しい『嘘の秩序』を見せて差し上げましょう」


 楓の指先が、政宗の手の甲に微かな数字をなぞるように動いた。


 「騙すのではありません。彼の物差しが、私の算盤より劣っていることを、証明するだけにございます」


 政宗は、低く笑った。その笑い声は、深夜の静寂の中に狂気を孕んで響いた。

 

 「よかろう。三成の前で、その算盤を弾いてみせろ。俺も、その博打に乗ってやる。……だが、楓。もし負ければ、死ぬのは貴様一人ではない。俺の野心も、この奥州も、すべて道連れだ」


 数日後。雄勝の入り江に、石田三成が降り立った。

 そこには、側室としての慎ましやかな装束を纏い、ただひたすらに「米の勘定」を行っている楓の姿があった。周囲には、急ごしらえの粗末な米蔵が並び、村人たちは慣れぬ手つきで米俵を運んでいる。


 三成は、楓の前に立ち、無造作に帳簿を突きつけた。


 「側室殿。この地の石高は『ゼロ』と聞いている。……だが、湊の倉庫に運び込まれた干鮑の量と、領内に流通している銭の比率が合わぬ。説明してもらおうか」


 楓は、算盤を脇に置き、優雅に一礼した。

 その背後には、凍てつく冬の海が、牙を剥くように荒れている。


 「三成様。奥州の数字は、京とは違う理で動いております。……お見せしましょう。あなたが信じる『土地』が、いかに不確かなものであるかを」


 楓は、手元の算盤の珠を一粒、弾いた。

 ――カチリ。

 その小さな音は、三成が築き上げた、完璧なはずの豊臣の計算式に、初めて亀裂を入れる音だった。


 三成の指示で、検地官たちが倉庫の中身を「枡」で計り始める。だが、測れば測るほど、数字は霧のように形を変えていく。米の重さは合っている。だが、その背後で動いている「価値」が、どうしても掴めない。


 「三成様。あなたの枡は、動かぬものを計るには最適です。……ですが、この海を流れる『時』を計ることは叶いませぬ」


 「時だと?」


 楓は、黄金色に輝く大ぶりの鮑を一つ、三成の前に置いた。


 「今、ここで計れば、それは単なる一個の干物です。ですが、これが三ヶ月後に海の向こうへ届けば、価値は二十倍に跳ね上がる。私は、その『未来の富』を、今この場で、硝石や鉛と交換しております。あなたの理(ことわり)には、未来という桁(けた)が足りないのです」


 三成の顔が、驚愕に歪んだ。土地を縛り、収穫を分配することで成り立つ「石高の理」に対し、楓は「流動と予見」という、全く別の理を突きつけたのだ。


 三成は、震える手で帳簿を閉じた。

 この日、彼は初めて敗北を予感した。目の前の女が、豊臣の天下という巨大な器を、内側から溶かそうとしていることに気づいたからだ。


 「……独眼竜。貴殿は、とんでもないものを飼い慣らしているな」


 三成の背後で、冷たい波が岩を砕いた。

 豊臣の理が、音を立てて崩れ始める序曲であった。

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2026年1月21日 00:00
2026年1月22日 00:00
2026年1月23日 00:00

楓 ~戦国時代で経済戦~ 五平 @FiveFlat

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