第2話:不毛の地の錬金術

 北上川の河口をさらに北へ、切り立ったリアス式海岸の断崖を縫うように進んだ先に、その「ゴミ捨て場」はあった。

 雄勝(おがつ)。

 平地などは猫の額ほどもなく、冬の荒波が黒い岩肌を叩いては、飛沫が氷の粒となって打ち捨てられた廃屋の板壁に突き刺さる。土は痩せ、米など一粒も育たぬ不毛の地である。伊達家が切り取った広大な奥州の版図において、この地は名実ともに、誰からも省みられぬ「零(ぜろ)」の土地であった。


 「……ここか」


 楓は、寒風に煽られる小舟の縁を掴み、陸を見つめた。

 随行したのは、政宗から監視役として付けられた老足軽一人と、湊から連れてきた年若い侍女の二人だけだ。

 村とは名ばかりの、数軒のあばら屋。そこから這い出してきた村人たちは、幽霊のような虚ろな目で新しく来た側室を眺めていた。彼らの目に宿っているのは、歓迎でも反抗でもなく、ただ「どうせここで死ぬだけだ」という乾いた諦観だった。


 「姫様、ここは……。本当に、何もございません。薪にする木すら、波に洗われて塩を吹いております」


 侍女が震える声で呟く。確かに、この岩だらけの地に鍬を入れたところで、得られるのは泥混じりの砂利だけだろう。土地の支配を「石高」で測る者――すなわち、土に這い、天の恵みとしての米を待つ者にとっては、ここは地獄の底に等しい。


 だが、楓は、波打ち際に転がる黒い石を一つ拾い上げた。

 それは雄勝の特産となる硯(すずり)の原石だが、今はただの冷たい石塊に過ぎない。楓はその石を掌で転がし、もう片方の手で懐の算盤の珠を一つ、静かに弾いた。


 「いいえ。ここは、黄金の国よりも輝いているわ」


 「……姫様?」


 「米が育たぬということは、誰の目にも止まらぬということ。誰もが価値を認めぬということは、法の外側にあるということ。……この静けさこそが、私の欲しかった軍資金よ」


 一月後。雄勝の入り江には、村の歴史が始まって以来の奇妙な光景が広がっていた。

 楓は、村の男たちに命じ、田畑を耕させるのではなく、ひたすら冬の冷たい海に潜らせていた。彼らが引き上げてくるのは、巨大な鮑(あわび)と、深い黒緑色をした厚みのある昆布だ。


 「姫様、こんなものを集めてどうするのです。鮑など、ここでは腹の足しにもなりませぬ。米が欲しい。せめて麦でも頂かなければ、村の者は春を越せませぬ」


 村の名主が、飢えで尖った顔を向け、不満を漏らす。

 楓は、冷えた空気の中に炭火で炙った鮑の香りを漂わせながら、静かに帳簿を綴っていた。その帳簿は、通常の代官が用いる大福帳とは異なり、微細な格子状の線が引かれ、そこには奇怪な記号と数字の羅列が埋め尽くされている。


 「長(おさ)。あなたは、自分の胃袋の大きさで世界を測っている。だから、腹が減るのです」


 楓は帳簿から目を離さず、淡々と告げた。


 「この鮑を一斤、干して磨き上げれば、明(みん)の国では金と同じ重さで取引されることを知っていますか? 唐土の貴人たちは、これなしでは宴も開けぬほどに飢えているのです。……あなたが今欲しがっている米の数千倍の価値が、その籠の中に詰まっているのですよ」


 「みん……? 唐土……? 何のことだか……」


 「知らないままでいいわ。ただ、私の弾く音に従いなさい」


 楓は、算盤の珠を流れるように動かした。

 カカカカッ、という乾いた音が、静かな村に響き渡る。

 彼女の脳内では、雄勝の港を中心とした富の巡りが、目に見える理(ことわり)として流れていた。

 

 鮑を干す。容積は五分の一に減るが、保存性は十年まで跳ね上がる。価値は、十倍。

 これに、北から来る蝦夷(えぞ)の交易船が運ぶ毛皮と、南から来る堺の商人が求める銀を、どこで衝突させるか。

 

 楓が狙ったのは、政宗すらまだ手を出していない、海路の空白地帯だった。

 冬の太平洋は、あまりの荒天ゆえに、どの大名も商人も航行を避ける。だが、親潮の流れを熟知していれば、この時期の海は、北から南へ荷を運ぶための「一方通行の高速路」に変わる。誰も通らぬ道こそが、関所という無駄な銭を払わずに済む最短の道となるのだ。


 監視役の老足軽が、楓の動向を米沢の政宗へ報告しようとした矢先のことだった。

 雄勝の入り江に、見たこともない巨大な、それでいて奇妙な帆を張った一隻の船が現れた。

 それは、蝦夷の地から来たアイヌの交易集団だった。彼らは本来、もっと北の津軽や湊安東の領地で取引をするはずの者たちだ。


 「……来たわ。風の計算通りに」


 楓は、雪を蹴立てて桟橋へ向かった。

 村人たちが恐怖で腰を抜かす中、楓は懐から、先日の硯の原石を磨き上げた一本の「棒」を取り出した。


 「言葉は不要です。これを、あなた方の持つ海獣の油と交換しましょう。比率は、三対一。……この算盤の音が、神仏への誓いにございます」


 アイヌの首領は、楓が弾く算盤の音色に、畏怖に近い敬意を抱いたようだった。彼らにとって、正確な計数は、神(カムイ)との契約を意味する。楓の指が、目にも止まらぬ速さで珠を弾き続ける。

 

 カカカカッ――!

 

 物と物が交換されるたび、楓の脳内にある数字が、重たい米の束から、熱を帯びた「流動的な富」へと変換されていく。海獣の油は、夜を照らす灯明となり、さらに高く売れる。干鮑は、次の船でさらに遠くへ運ばれる。


 数日後。米沢城の政宗のもとに、雄勝からの「最初の献上品」が届いた。

 家臣たちが「どうせ岩塩か、ひからびた鮑でも入っているのだろう」と鼻で笑いながら箱を開けた瞬間、広間は絶句に包まれた。

 

 そこに入っていたのは、雪のような白さを放つ、最高級のラッコの毛皮十枚。そして、見たこともない純度で精錬された、マニラの刻印が入った「銀貨」の山だった。


 「……何だ、これは」


 政宗が、銀貨の一枚を指で弾き、右眼を細めた。

 側近の片倉小十郎が、震える手で報告書を差し出す。


 「雄勝よりの報告にございます。側室・楓。……石高ゼロの地より、一月のうちに、伊達領一村の年貢、三年分に相当する富を……『弾き出した』と」


 政宗は、銀貨の冷たい感触を掌で転がし、豪快に笑い飛ばした。

 

 「三年分だと? 小十郎、貴様はまだ分かっていないな。この女が弾き出したのは、単なる金ではない」


 政宗は立ち上がり、北の空を見上げた。その視線の先には、雪に閉ざされた雄勝があり、さらにその先には、世界へ通じる漆黒の太平洋が広がっている。

 

 「秀吉が築いた『石高』という名の理。土地に縛り、米の数で人を計るあの息苦しい檻を、根底から腐らせる大砲の弾だ。……小十郎、これこそが俺の欲しかった軍資金だ」


 (楓……。貴様、これほどまでに速いのか。俺の野心が、貴様の計算に追いつけぬほどに)


 その頃、雄勝の粗末な小屋で、楓は再び算盤に向かっていた。

 彼女の瞳には、献上の成功など映っていない。

 

 「……次は、石田三成様。あなたの順番です」


 楓は、算盤の珠を一粒、冷徹に弾いた。

 豊臣の天下を支える、潔癖なまでの理の守護者。彼の物差しの中に、この雄勝の誤差を放り込んだ時、日本という国がどれほど激しく軋むか。

 

 土地に縛られ、米に依存する古い中世が、彼女の弾く音一つで、音を立てて崩れ始めていた。

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