第2話 雷神の刻印

 その夜、理央は何度も目を覚ました。

 道代の表情。柚季が描いた腐乱した女の絵。そして、胸の奥に残るざわめき。


「……あなたがそうするなら、私は一日に千人を殺す」


 イザナミの呪言が、頭の中でループする。


 翌朝、寝不足のまま待ち合わせ場所に向かうと、すでに氷室志帆が立っていた。いつもより少し化粧が濃い。口紅の色が、昨日と違う。


「遅刻ギリギリじゃない。もう出発するわよ」


 促されるまま、理央は鹿島行きのバスに乗り込んだ。


***


 静かに流れる車窓からの風景。水田が広がり、遠くに鹿島灘の海がちらちらと光って見える。


「ねえ、今日って何の取材でしたっけ」


 理央が欠伸を噛み殺しながら訊くと、志帆がノートパソコンから目を上げた。


御田植おたうえ祭の早乙女役の子。鹿島神宮って知ってる?」

「はい。タケミカヅチを祀る……」

「そう。関東最古の、武神の社よ」

「武神って、戦いの神様ですよね。なんで田植えなんですか?」

「それが不思議なのよね」


 志帆が、少しだけ表情を緩めた。


「私も最初、矛盾してると思ったの。でも綾城先生が言ってたわ。神は一面的じゃないって。戦いの神は、同時に豊穣の神でもある。剣で大地を鎮め、田を護る。そういう二面性が、日本の神話には多いんだって」

「……へえ」


 理央は、志帆が「綾城先生」と呼ぶときの声のトーンに、わずかな甘さが混じるのを聞き逃さなかった。


 ―― ああ、やっぱり。


 胸が、チクリと痛んだ。


「で、その早乙女の子に何を訊くんですか?」

「祭の最中、何を感じたか。神の気配を感じたか。そういうこと」

「……神の気配」


 理央が繰り返すと、志帆が少しだけ真剣な顔になった。


「理央は、感じたことある? 神様の気配」

「え?」

「いや、なんとなく。あなた、時々、妙な顔するから」


 志帆の視線が、理央の顔をじっと見つめる。

 理央は答えられなかった。昨夜の夢を、思い出していた。

 赤い参道。腐乱した女。そして――遠くから聞こえる、波の音。


「……分かりません」


 志帆は、それ以上訊かなかった。


***


 早乙女役の女性の実家は、鹿島神宮の参道から一本裏手に入った小径に佇む、古びた甘味処だった。

 白い暖簾が風に揺れている。店先には紫陽花の鉢がいくつも並び、どこか時間が止まったような静けさが漂っていた。

 中に通されると、座敷の奥に涼しげな簾が下がり、硝子越しに小さな庭が見えた。畳の上には文机と丸盆が置かれ、季節の和菓子と冷たい麦茶が用意されている。


 そして――彼女が、そこにいた。

 白井沙羅さら

 白の麻のワンピース。すっきりとした輪郭、大きな瞳。写真で見た早乙女のときの神聖な雰囲気とは打って変わって、どこにでもいる普通の女子大生のように見えた。


 けれど――。

 理央の胸の奥が、ざわついた。

 沙羅が瞬きするたび、その瞳の奥に何か深いものが見え隠れする。まるで、古い井戸の底を覗き込んでいるような。


「では、よろしくお願いします」


 志帆がレコーダーを起動させると、沙羅が静かに頷いた。


「早乙女に選ばれた経緯から、聞かせてもらえますか?」

「はい。うちは代々、神宮の氏子で。子供の頃から神楽や奉納の練習をしてきました」


 淡々とした口調。けれど、時々、沙羅の視線が理央に流れる。

 探るように。確かめるように。


「早乙女の役を務めたとき、何か……感じましたか?」


 志帆が訊くと、沙羅が少しだけ間を置いた。


「神様の声が聞こえるわけじゃないけど」


 彼女の目が、理央と重なった。


「背中に風が入ってくるような気がして。まっすぐ立て、って言われてるような……」


 理央は、思わず息を飲んだ。

 沙羅の目が、笑っていない。


「よかったら」


 沙羅が、唐突に言った。


「このあと、私が"神さま"に興味を持った場所に行ってみませんか?」

「……どこですか?」


 志帆が訊くと、沙羅がふっと笑った。


「昔、通っていた小学校。今はもう廃校になっていて……でも、今でも夢に見るんです」


 彼女の声が、わずかに低くなった。


「不思議なことが、いくつかあって」


 理央の心臓が、ドクンと跳ねた。


***


 廃校となった小学校は、神宮の森を背にするようにひっそりと佇んでいた。

 木造の校舎は風雨に晒されて色褪せていたが、ところどころに手入れの跡があり、まるで眠っているだけのような静けさが漂っている。

 校庭には雑草が生い茂り、使われなくなった鉄棒とブランコが、風に軋んだ。

 きぃ……きぃ……


「ここで、私……」


 沙羅が、かすかに笑みを浮かべながら、正面玄関を見上げた。


「小学生の頃、ここで不思議な体験をしたんです」

「どんな?」


 志帆が訊くと、沙羅が少しだけ首を傾げた。


「誰もいないのに、誰かが見守ってくれてるような感じ。放課後の校庭に立ってると、ふっと、風が背中を押してくるみたいな」


 理央は、ふと気づいた。

 校庭の隅に、花が供えられている。

 真新しい、白い菊。


「……あれ」


 理央が指差すと、沙羅が振り返った。


「ああ、あれ」


 彼女の声が、わずかに沈んだ。


「十年前、ここで子供が一人、消えたんです」

「消えた?」

「放課後、一人で遊んでて。気がついたら、いなくなってた。捜索願も出て、警察も来たけど……結局、見つからなかった」


 沙羅が、ゆっくりと歩き出す。


「私、その子と仲が良くて。一緒に鬼ごっこして遊んでたの。でも、ある日突然……」


 彼女が立ち止まった。

 校舎の窓。二階の、音楽室。

 そこに――誰かが、立っている。

 理央は、息を飲んだ。

 小さな、子供のシルエット。

 窓の向こうで、じっとこちらを見ている。


「……あれ」


 理央が声を絞り出すと、沙羅が振り返った。


「見えるんですね」


 彼女の目が、笑った。


「理央さんには、見えるんですね」


 その瞬間――。


 理央の視界が、白く染まった。


 ―― 清い。


 声が、響いた。いや、声というより、雷が落ちたような衝撃。


 ―― 久方ぶりだ、その香り。


 胸が、灼けるように熱い。


 ―― 遠い海の。流し清める御方の気配。なぜ、そなたに?


 御簾が揺れる。誰かの――いや、何かの視線が、理央を貫いている。


 ―― 我は剣。地を鎮め、護るもの。


 視界の中に、巨大な剣が浮かび上がった。白く輝く刀身。柄には雷の文様。


 ―― そなたに力を貸そう。試練のとき、我を呼べ。


 理央の体が、勝手に震えた。

 そして――すべてが、戻った。


「理央?」


 志帆が、理央の腕を掴んでいた。


「どうしたの、顔、真っ青よ。大丈夫?」


 理央は答えられなかった。胸の奥に、まだ雷の余韻が残っている。


「ここ、変な場所なのかも」


 志帆が周囲を見回すと、沙羅が微笑んだ。


「そうかもしれません」


 彼女の目が、理央をじっと見つめている。


「でも、理央さんは大丈夫。護られていますから」

「……え?」

「見えたでしょう。剣が」


 理央は、息を飲んだ。

 沙羅が、どこまで知っているのか――。


「帰りましょう」


 志帆が、不安そうに理央の腕を引っ張った。


「なんか、ここ、気持ち悪い」


 三人が校門を出ると、背後で――。

 きぃ……きぃ……

 ブランコが、誰も乗っていないのに、揺れ続けていた。

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2026年1月17日 19:00
2026年1月18日 10:03
2026年1月18日 13:02

【改訂版】綾城准教授の特別講義 Youichiro @oldlinus

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