【改訂版】綾城准教授の特別講義

Youichiro

第一章 裏切られた愛

第1話 千人の呪言

 東京明峰めいほう大学――中央線沿線の郊外に位置し、明治時代から続く歴史ある私立の名門校。都心の喧騒を離れた緑豊かなキャンパスには、近代建築と赤煉瓦の校舎が並び、時間がゆっくりと流れている。文化人類学や歴史学、民俗学などの人文系学問においては全国的に知られ、独特の学風を持つ。


 かすかに薫る皐月の風が、研究棟四階の開け放たれた窓から忍び込む。

 だが――理央はふと、違和感を覚えた。風に混じって、何か別の匂いが。古い、土と湿気の匂い。まるで、誰かが長い間、閉じ込められていた場所の空気のような。

 外では構内の銀杏がわずかに揺れ、遠くグラウンドの歓声が風に溶けていた。


「氷室先輩、これ……去年のフィールドワークの報告書ですよね?」


 白いTシャツに薄手のジャケットを羽織った真木まき理央りおが、棚の隅から一冊のファイルを取り出し、手元でぱらぱらと捲る。地方の神話に興味を持ち、文化人類学を志した三年生。感情が顔に出やすく、研究室でもその素直さが目立っている。


「うん。南砺なんと市の神送り行事のやつ。……よく見つけたね、それ、私がまとめたんだ」


 パイプ椅子に腰かけた氷室ひむろ志帆しほが、ノートパソコンから目を離さずに答える。落ち着いた声。彼女は修士課程の院生で、研究室の実質的な運営を担う頼れる存在だ。指導的立場にありながら、自分に対しては完璧主義で知られ、厳しさの裏に不器用な優しさを隠している。


「先輩、それ僕にもやらせてくださいよ。なんか、見てるだけって感じで」

「なら、口より先に指を動かしてね」


 理央が舌を出し、苦笑いしたその横で、久遠くおん柚季ゆずきが無言でクスッと笑った。彼女は窓際の席に座り、ボールペンの先で自分のメモ帳を突っついていた。理央と同じく三年生で、どこか浮世離れした雰囲気を纏うが、観察眼と分析力には一目置かれている。


「柚季は何してんの?」

「夢の記録。昨夜見たの、変な神社だったから。参道が三本あって、真ん中だけ赤いの。あとで理央にも描いてあげる」

「夢日記か……文化人類学っぽい。……というか、やっぱり柚季って変わってるよね」

「うん。でも、変わってるって便利だよ? だっての人のこと、よく観察できるもん」


 志帆が小さく鼻を鳴らす。見えない疲労が背中に滲むように、彼女のキーボードの音が止まった。


「柚季、理央、そろそろ教務課に提出するフィールドワーク計画、まとめて予算申請しないと。先生に相談して──」


 カチャ。

 研究室のドアノブが回り、静かに開いた。陽光の逆光を背に、一人の男が無言で足を踏み入れる。

 灰色のジャケット、薄いグレーのシャツ。整った輪郭、切り揃えられた黒髪。瞬間、部屋の空気がわずかに張り詰める。


綾城あやしろ先生……お帰りなさい」


 志帆の声が弾む。理央は思わず背筋を伸ばし、柚季はゆっくりとメモ帳を閉じた。


「ただいま。ごめん、遅れた。播磨教授とのリモート会議が……少し長くなってね」


 鞄を置きながら、綾城遼一りょういちは瞼を伏せた。眼差しには熱も怒りもない。ただ、あまりに整いすぎた静けさが、逆にその内側にが潜んでいることを感じさせた。

 ──その直後。


「失礼します」


 研究室の扉の向こうから、ヒールの音と共に女性の声が響いた。

 理央が振り向くと、そこには紺のスーツに身を包んだ女性が立っていた。落ち着いた笑顔と、磨かれた所作。その名を、理央は知っていた。


「……道代さん」


 明峰大学理事長の娘にして、安原事務総長の妻。大学運営にも積極的に関与し、教授や学生からも一定の信頼を得ている。会議資料に目を通すのは日常で、現場の声にも耳を傾ける姿勢から「理事会の影の実力者」とも噂されていた。

 十五年連れ添った夫である昌治しょうじに対しても、表向きは柔らかな態度を崩さず、時に助言し、時に陰から支える賢妻としての姿勢を貫いている。ある時は冷ややかで、別の時はふいに甘い声を落とす彼女の存在は、学内でも特別だった。


「今日は先生の研究を詳しくお聞きしたいと思って。皆さん、忙しいところお邪魔してごめんなさい。どうぞよろしくね」


 彼女の微笑みの奥に、理央は直感する。


 ── この人こそ、真の経営者なんだ。


***


 それから数分後。氷室が淹れてくれた紅茶の香りが、研究室の空気をやわらかく染めていた。


「今日のは、ダージリンのセカンドフラッシュ。香りが立ってるでしょ。初夏に摘まれるセカンドフラッシュはって呼ばれてて、香りとコクのバランスがすごく良いの。こういう穏やかな時間にぴったりだと思います」


 氷室が柔らかい笑みを浮かべて、ティーカップを順に差し出す。その隣では、柚季が持参した小さなビスキュイの缶を開け、素朴な焼き菓子を皿に並べていた。


「これ、私が好きなフランスの田舎菓子なんです。バターの香りがちゃんとして、紅茶と一緒に食べると落ち着くんですよ。……硬めだから、ゆっくり噛むといいかも」


 柚季の言葉は飾らないが、その表情はどこか嬉しそうだった。

 紅茶の湯気の向こうで、安原道代が椅子に腰をかけ、優雅にカップを手に取る。


「まあ。こんなに香りの良い紅茶を淹れてくださるなんて……氷室さんは相変わらずセンスが抜群ね」

「新しいメンバーをご紹介します。二人とも、今春から正式にうちの所属になった三年生です。真木理央と、久遠柚季」


 綾城が淡々と紹介すると、理央は姿勢を正して軽く頭を下げた。


「真木です。よろしくお願いいたします」

「久遠です。あの、いつもはもっとおとなしいんですけど……今日はなぜかしゃべりたい気分で」


 その言葉に、一同の間に控えめな笑いが生まれる。

 道代は、そんな空気を穏やかに受け止めながら、ふっと肩の力を抜いたように微笑んだ。


「安心しましたわ。てっきり、また綾城先生がお一人で黙々と研究に没頭されているのかと……優秀な先生のもとには、もっと学生が集まってもよいはずなのに。四年生のお二人も、就職活動で顔を出す時間が減っていると聞きましたし……氷室さんと二人きりになってしまわないか、少し心配していましたのよ」

「最近の学生は、メディア社会学やSDGsばかりですから。……でも、無理に流行に乗る気はありません。本当に文化人類学に興味のある学生とやれるのが、一番です」


 綾城の返答は、確固とした信念が窺えた。その言葉に道代は口元を綻ばせ、カップの縁にそっと唇を寄せた。


「本当に……欲がない方。けれど、だからこそ、信じられるのかもしれませんね。あなたの言葉は、いつもまっすぐで」


 理央は、そのやりとりを見ながら、胸の内にじんわりとした温かさが広がるのを感じていた。誰に対しても同じ目線で接し、浮ついたことを言わず、誠実で、静かで、まるで山の神のような綾城先生。

 そして、その彼の言葉を迷いなく信じる道代の眼差しにも、理央は少しずつ尊敬し始めていた。ただ上から物を言う理事長の娘ではない。自ら大学運営に身を置き、現場の声を拾う努力を惜しまず、誰よりも大学の未来を考えている――その器の大きさが、言葉の端々ににじんでいた。


「先生、ところで最近は、どんな研究をされているのかしら?」


 道代の問いに、綾城は紅茶を一口啜り、静かに答えた。


白山比咩しらやまひめ神社を訪れました。石川県の山間にある、菊理媛ククリヒメを祀る古社です。日本書紀にほんの少ししか登場しない謎の神ですが、イザナギとイザナミの別れで重要な役割を担いました」

「イザナミとイザナギの別れ……」

「火の神を生んだときの火傷で命を落としたイザナミは、黄泉の国でイザナギと再会します。ところが見ないという約束を破って、イザナギは異形の姿に落ちたイザナミを見てしまいます」


 綾城の軽妙な語り口に、道代は思わず身を乗り出している。


「イザナミは怒り狂い、イザナギを追いかけます。イザナギは逃げながら、最後に黄泉比良坂よもつひらさかという坂道に千引岩を置いて、二人の間を隔てます」


 理央は思わずゴクリと唾を飲んだ。知っている話のはずなのに、綾城先生が語ると、まるで自分がその場にいるような――いや、違う。何か、もっと別の感覚だ。胸の奥が、ざわざわと波打っている。まるで、自分の中の何かが、この神話に反応しているような……。


「ここで、決定的な言葉のやり取りがあります。イザナミは、あなたがそうするなら、私は一日に千人を殺す。イザナギは、ならば私は一日に千五百の産屋を建てる」


 なんとも凄まじい愛のなれの果てに、理央は背中がゾクリとした。

 ふと、道代の表情が目に入った。

 わずかな間――ほんの一瞬の、ひび割れるような沈黙。

 彼女の瞳に、深い影が差した。

 まるで、イザナミの言葉が、彼女自身の声だったかのように。

 

「……あなたがそうするなら、私は一日に千人を殺す……」

 

 道代の唇が、かすかに動いた。呟いたのか、それとも理央の錯覚か。

 綾城は気づいていないようだった。志帆も、柚季も。

 けれど理央は、確かに感じた。

 この部屋に、何かが――見えない、冷たい何かが、入り込んだ気配を。

 胸の奥で、異様な感覚が脈打つ。

 

 ―― これは、何だ?

 

 理央は息を呑んだ。道代の表情は、すでに元の穏やかな微笑みに戻っている。

 けれど、その笑みの奥に、理央は感じ取ってしまった。

 裏切られた者の、静かな憤怒を。

 道代が研究室を出て行った後、理央は窓の外を見つめた。

 夕暮れが近づき、キャンパスに長い影が伸びている。

 

「……理央、大丈夫?」


 柚季が、いつになく真剣な表情で理央を見ていた。


「え? うん、なんか……」

「感じた?」

「……何を?」


 柚季は、ゆっくりとメモ帳を開いた。

 そこには、赤い参道の絵。そして、その奥に――腐乱した女の姿が、描かれていた。

 

「昨夜の夢。あれ、予知夢だったのかも」

 

 理央の背筋を、冷たいものが走った。

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