【改訂版】綾城准教授の特別講義
Youichiro
第一章 裏切られた愛
第1話 千人の呪言
東京
かすかに薫る皐月の風が、研究棟四階の開け放たれた窓から忍び込む。
だが――理央はふと、違和感を覚えた。風に混じって、何か別の匂いが。古い、土と湿気の匂い。まるで、誰かが長い間、閉じ込められていた場所の空気のような。
外では構内の銀杏がわずかに揺れ、遠くグラウンドの歓声が風に溶けていた。
「氷室先輩、これ……去年のフィールドワークの報告書ですよね?」
白いTシャツに薄手のジャケットを羽織った
「うん。
パイプ椅子に腰かけた
「先輩、それ僕にもやらせてくださいよ。なんか、見てるだけって感じで」
「なら、口より先に指を動かしてね」
理央が舌を出し、苦笑いしたその横で、
「柚季は何してんの?」
「夢の記録。昨夜見たの、変な神社だったから。参道が三本あって、真ん中だけ赤いの。あとで理央にも描いてあげる」
「夢日記か……文化人類学っぽい。……というか、やっぱり柚季って変わってるよね」
「うん。でも、変わってるって便利だよ? だって普通の人のこと、よく観察できるもん」
志帆が小さく鼻を鳴らす。見えない疲労が背中に滲むように、彼女のキーボードの音が止まった。
「柚季、理央、そろそろ教務課に提出するフィールドワーク計画、まとめて予算申請しないと。先生に相談して──」
カチャ。
研究室のドアノブが回り、静かに開いた。陽光の逆光を背に、一人の男が無言で足を踏み入れる。
灰色のジャケット、薄いグレーのシャツ。整った輪郭、切り揃えられた黒髪。瞬間、部屋の空気がわずかに張り詰める。
「
志帆の声が弾む。理央は思わず背筋を伸ばし、柚季はゆっくりとメモ帳を閉じた。
「ただいま。ごめん、遅れた。播磨教授とのリモート会議が……少し長くなってね」
鞄を置きながら、綾城
──その直後。
「失礼します」
研究室の扉の向こうから、ヒールの音と共に女性の声が響いた。
理央が振り向くと、そこには紺のスーツに身を包んだ女性が立っていた。落ち着いた笑顔と、磨かれた所作。その名を、理央は知っていた。
「……道代さん」
明峰大学理事長の娘にして、安原事務総長の妻。大学運営にも積極的に関与し、教授や学生からも一定の信頼を得ている。会議資料に目を通すのは日常で、現場の声にも耳を傾ける姿勢から「理事会の影の実力者」とも噂されていた。
十五年連れ添った夫である
「今日は先生の研究を詳しくお聞きしたいと思って。皆さん、忙しいところお邪魔してごめんなさい。どうぞよろしくね」
彼女の微笑みの奥に、理央は直感する。
── この人こそ、真の経営者なんだ。
***
それから数分後。氷室が淹れてくれた紅茶の香りが、研究室の空気をやわらかく染めていた。
「今日のは、ダージリンのセカンドフラッシュ。香りが立ってるでしょ。初夏に摘まれるセカンドフラッシュは紅茶のシャンパンって呼ばれてて、香りとコクのバランスがすごく良いの。こういう穏やかな時間にぴったりだと思います」
氷室が柔らかい笑みを浮かべて、ティーカップを順に差し出す。その隣では、柚季が持参した小さなビスキュイの缶を開け、素朴な焼き菓子を皿に並べていた。
「これ、私が好きなフランスの田舎菓子なんです。バターの香りがちゃんとして、紅茶と一緒に食べると落ち着くんですよ。……硬めだから、ゆっくり噛むといいかも」
柚季の言葉は飾らないが、その表情はどこか嬉しそうだった。
紅茶の湯気の向こうで、安原道代が椅子に腰をかけ、優雅にカップを手に取る。
「まあ。こんなに香りの良い紅茶を淹れてくださるなんて……氷室さんは相変わらずセンスが抜群ね」
「新しいメンバーをご紹介します。二人とも、今春から正式にうちの所属になった三年生です。真木理央と、久遠柚季」
綾城が淡々と紹介すると、理央は姿勢を正して軽く頭を下げた。
「真木です。よろしくお願いいたします」
「久遠です。あの、いつもはもっとおとなしいんですけど……今日はなぜかしゃべりたい気分で」
その言葉に、一同の間に控えめな笑いが生まれる。
道代は、そんな空気を穏やかに受け止めながら、ふっと肩の力を抜いたように微笑んだ。
「安心しましたわ。てっきり、また綾城先生がお一人で黙々と研究に没頭されているのかと……優秀な先生のもとには、もっと学生が集まってもよいはずなのに。四年生のお二人も、就職活動で顔を出す時間が減っていると聞きましたし……氷室さんと二人きりになってしまわないか、少し心配していましたのよ」
「最近の学生は、メディア社会学やSDGsばかりですから。……でも、無理に流行に乗る気はありません。本当に文化人類学に興味のある学生とやれるのが、一番です」
綾城の返答は、確固とした信念が窺えた。その言葉に道代は口元を綻ばせ、カップの縁にそっと唇を寄せた。
「本当に……欲がない方。けれど、だからこそ、信じられるのかもしれませんね。あなたの言葉は、いつもまっすぐで」
理央は、そのやりとりを見ながら、胸の内にじんわりとした温かさが広がるのを感じていた。誰に対しても同じ目線で接し、浮ついたことを言わず、誠実で、静かで、まるで山の神のような綾城先生。
そして、その彼の言葉を迷いなく信じる道代の眼差しにも、理央は少しずつ尊敬し始めていた。ただ上から物を言う理事長の娘ではない。自ら大学運営に身を置き、現場の声を拾う努力を惜しまず、誰よりも大学の未来を考えている――その器の大きさが、言葉の端々ににじんでいた。
「先生、ところで最近は、どんな研究をされているのかしら?」
道代の問いに、綾城は紅茶を一口啜り、静かに答えた。
「
「イザナミとイザナギの別れ……」
「火の神を生んだときの火傷で命を落としたイザナミは、黄泉の国でイザナギと再会します。ところが見ないという約束を破って、イザナギは異形の姿に落ちたイザナミを見てしまいます」
綾城の軽妙な語り口に、道代は思わず身を乗り出している。
「イザナミは怒り狂い、イザナギを追いかけます。イザナギは逃げながら、最後に
理央は思わずゴクリと唾を飲んだ。知っている話のはずなのに、綾城先生が語ると、まるで自分がその場にいるような――いや、違う。何か、もっと別の感覚だ。胸の奥が、ざわざわと波打っている。まるで、自分の中の何かが、この神話に反応しているような……。
「ここで、決定的な言葉のやり取りがあります。イザナミは、あなたがそうするなら、私は一日に千人を殺す。イザナギは、ならば私は一日に千五百の産屋を建てる」
なんとも凄まじい愛のなれの果てに、理央は背中がゾクリとした。
ふと、道代の表情が目に入った。
わずかな間――ほんの一瞬の、ひび割れるような沈黙。
彼女の瞳に、深い影が差した。
まるで、イザナミの言葉が、彼女自身の声だったかのように。
「……あなたがそうするなら、私は一日に千人を殺す……」
道代の唇が、かすかに動いた。呟いたのか、それとも理央の錯覚か。
綾城は気づいていないようだった。志帆も、柚季も。
けれど理央は、確かに感じた。
この部屋に、何かが――見えない、冷たい何かが、入り込んだ気配を。
胸の奥で、異様な感覚が脈打つ。
―― これは、何だ?
理央は息を呑んだ。道代の表情は、すでに元の穏やかな微笑みに戻っている。
けれど、その笑みの奥に、理央は感じ取ってしまった。
裏切られた者の、静かな憤怒を。
道代が研究室を出て行った後、理央は窓の外を見つめた。
夕暮れが近づき、キャンパスに長い影が伸びている。
「……理央、大丈夫?」
柚季が、いつになく真剣な表情で理央を見ていた。
「え? うん、なんか……」
「感じた?」
「……何を?」
柚季は、ゆっくりとメモ帳を開いた。
そこには、赤い参道の絵。そして、その奥に――腐乱した女の姿が、描かれていた。
「昨夜の夢。あれ、予知夢だったのかも」
理央の背筋を、冷たいものが走った。
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