第3話 濁りて沈む


 ある日の帰り道。圭介はやけに星が輝いている夜空を見上げて、白い息を放った。季節は春になろうとしているにもかかわらず、気温は冬並みだ。冷たさはあるいは、彼の心境から来ているのかもしれなかった。


 帰宅後、早々にハイさんを起こした。ぐぽりと目覚めた彼はあくびをしながら、圭介の話を聞いた。


「恋人のこたぁぼくにはわからんねぇ」


「まあ、聞いてもらえるだけありがたいよ」


 圭介の話によると、どうやら最近恋人がそっけないらしく、彼にとっては憂鬱な問題らしかった。気を引くためにわざと彼女がそうしている、というわけではなく、なにか別の理由があるようだった。


彼は、現在付き合っている子に対し、なかなか重たい恋情を抱いているらしい。それが初めての恋人であるから、という理由ではなく、彼の性分に寄るものであるからだった。


しかしそんなことはハイさんになんの関係もなく、ハイさんにはお手上げのようだ。そもそもマンション内の出来事ではないのだから、当然である。


「まさか……浮気?」


「かもしれないなぁ」


「そんなのありえない……イチカはそんな人間じゃないし、俺だって……いや、ともかくなんかしなきゃ。俺はまだ好きなんだ」


「なかなかお熱いようで、ぼかぁ羨ましいねぇ」


「……ハイさんはそういうことってある?」


「なんせ排水溝だからねぇ、わからんねぇ」




 それからというもの、圭介は恋人のイチカとの理想を追いかけ始めた。ハイさんとの会話は、愚痴や雑談からそれらに関する悩み相談へとシフトした。


この間にも、マンション内では騒音やら矯正やらの、圭介の気に入らない問題は立ち上がっていたが、彼にはもうどうでも良かった。それより大事なことがあるからだ。


 ハイさんもできる限りのアドバイスをした。それと圭介のアイデアを掛け合わせて何度も、圭介は行動に移した。


しかし毎度、ハイさんの耳に来るのは残念な報告だった。この間にも一回だけ、恋人であるイチカは圭介の部屋に来たことがある。だが印象に残るのは、手荷物をドスンと置く彼女の仕草と、そっけない態度だけであった。




 やがて圭介の姿も、憂鬱に惹かれるように陰湿なものとなっていった。昼間の部屋、窓外には薄桃の山肌がいくつも浮かんでいて華やかだというのに、彼ばかりが灰の冬そのまんまであるのだ。


焦りや心配はないまぜとなり、黒色の不可解な怒りとなり始めていた。それでも彼は恋人を手放したくなかった。それほどまでに、彼の抱く理想に近い存在だったのだ。


 今はそっけないだけで、次第に戻っていくはずだ。枝葉のない冬から、緑や桃や黄色の咲き誇る春になるように、俺たちはまたやり直せるのだ……。圭介は諦めなかった。粘着性はよだれのように、くちゃりと彼の口で鳴った。


排水溝からゴロゴロと、隠しきれぬ笑みが覗いている気がした。




 すっかり春模様となった世間から隔絶された部屋で、圭介は水を飲んでいた。ハイさんとの会話はなく、彼の目はどこも捉えていなかった。


 すると、ドスンドスン、と上の階から聞こえてきた。ヨシズミといったか、彼は帰ってきていた。あれから音は控えめになってきていたが、ここ最近は調子を持ち直したらしく、圭介の手に握られたコップ内の水を揺らすほどに大きな音を立てていた。


彼はいつぶりかの不快感を思い出した。俺がこんな憂鬱な日々を送っているというのに、なぜヤツはこんな無遠慮な品性のカケラも持ち合わせていないような音を出せるのか……圭介は震えた。


 しかし、ふつふつと湧き上がる苛立ちの中で、黒カビ大の馴染みが芽生えた。ドスンドスン、という音が原因だ。圭介はなぜかはっきりと、そうわかった。


一聴、連続している「ドスン」なのだが、一回いっかいに僅かな差異があるらしかった。うるささが先行していた故、今までそれに気が付かなかったのだ。さらにそれだけではないようだ。



 どこかで聞き覚えのある、「ドスン」が含まれているらしかった。ここまで聴覚を鋭敏にさせる術を、圭介はいつのまにか体得していた。



 残っていた水を溢す。さらさらと流れて排水溝の闇に消えていった。瞬間、変な確信が圭介を襲った。前々から薄っすらと考えていた結論……それは彼自身が否定したものだった。


上を見上げる。天井、その向こう側にあるはずの人間を想像した。圭介の口に這い出してきていたよだれは、たちまち干上がってしまい、代わりなのかなんなのか、ハイさんはずるずると笑い出した。


それは今までとはまったく異なる音だった。


「わかるかぁケイスケ、わかっちまったなぁケイスケ。その顔は間違いないよなぁ」


 圭介は、ただ目と体を緊張させているばかりだった。背中には油のような冷たい汗が……流れなかった。代わりに、彼が見据えているのは台所の収納だった。


「これはぼくにはどうしようもない、ならケイスケが手を下さなきゃあだなぁ。うるさい音も止まるよなぁ」


 収納扉の側面に、鋭利ぎらりと銀面が覗く。柄に手をかけた圭介の手に、まともな力は入っていない。代わりに彼の口が、排水溝の口が、ぽっかり闇を見せながら動いた。


「音を止めればいいんだ」


「そうだぁ、音を」


「「止めればいいんだ」」


 排水溝からもう、なにも鳴らなかった。代わりに呪詛らしい言葉の数々が圭介の口から溢れた。一人で二人分の言葉を発していた。



 重たい金属扉を開け、圭介は外に出た。



 その夜、空は分厚い雲に覆われていて、雲は真っ黒な雨を地上に降らしていたが、生暖かい気温であった。


どこかで二つの花弁が散ったが、近しい場所で、はち切れんばかりの蕾がパツンと開いた。なによりも赤い花弁であった。




        * * *




 それからマンションでは二つの空き部屋ができた。札付きの部屋、ということで一年は入居者がいなかった。しかしどうだろう、能天気な人間というものはどこにでもいるようで、二部屋とも新しい入居者が住み始めた。どちらも、近くの大学に通うための新入生である。


 どちらかの部屋、その排水溝……不気味な音が夜毎に鳴っていた。ゴロゴロと笑っているらしかった。

 

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ハイさん ベアりんぐ @BearRinG

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