第2話 耳をその手に、口は目に
「いやあハイさんのおかげで静かになったよ! まさか水道管の破裂なんて想像してなかったなぁ」
「だろう、だろう」
上の住人は静かになった。彼の部屋が使えなくなったからだ。それは根本解決ではないが、圭介はとにかく、これからしばらくは静かになると知って喜んだ。
「この季節にゃ水道管の凍結なんてぇのはあり得る話。それも現象をきちんと知っていれば、ぼくには朝飯前ってことさぁ」
「いやぁあれから静かに! でも、また戻ってきたらうるさくなるのかぁ……チッ」
「そうなりゃあまた、色々したらいいんだぁ」
「いやぁハイさんサマサマだよ!」
このときに圭介の中から、ハイさんという不可解極まりない存在に対する警戒心は解け、まるで本当の友人のような心持ちが、彼の中で芽生えたわけである。単なる雑談相手から友人とは、似ているようで全然違う。
そうなると、会話のテンポや話題もまるっきり変わってしまう。現に圭介も、半ば他人行儀であった話題から、愚痴やら流行りやらの会話にシフトチェンジしていったわけだ。
それを察したのか、はたまたこちらも警戒心が解けたのか、ハイさんも彼に呼応するように、絶えず穏やかであった口調からときおり、詰まった髪の毛のような粘着性口語が飛び出した。
圭介は気にも留めなかった。多少の毒や無遠慮が飛び交う会話こそ、友人たる気遣いだと知覚していた彼にとっては、むしろ喜ばしいことだった。
このような状況のとき、当事者には充足感と興奮がもたらされる。心配性なものには、いつか終わってしまうという不安が積もる。圭介は前者のみだった。そうして生きてきたのだ。
それから圭介は図に乗った。なにか気に入らないことはハイさんの耳へ告げられた。当然ハイさんにできる範囲は限られているが、マンション内の不安となれば話は別だ。
隣がうるさいだの、下の階から聞こえてくる嬌声が鬱陶しいだの、また上の部屋から物音がするだの、圭介は愚痴をした。その度に、ハイさんが元凶を退ける事象を起こした。
回を重ねるごとに圭介の気は大きくなった。一度膨らみ始めた感情や身勝手さはなかなか止めることができないように、彼も止まらなかった。ハイさんが見返りを求めなかったこともあるのだろう。
そう、ハイさんはなにも咎めなかった。彼に善悪の観念があるかどうかは、圭介にとって懸念の対象であったが、次第に考えなくなった。そうなるころには、ハイさんは圭介にとって都合の良い装置となっていた。言葉にはしないけれど。
春分を迎えた細雪の夜。いつものように会話をしていたハイさんと圭介であったが、ふと、圭介がカップ麺を啜りながら訊いた。
「ハイさんはさ、排水溝だけど、どうやって凍結させたり変な物音を出したりしてんの?」
それまで詳しく訊いたことのなかった圭介にとって、それは当然の疑問だった。訊かないことにしていたわけではない。ただそれよりも、目の前の不満が取り除かれたことに、その都度感動するほうへ思考が回っていただけである。
しかしラーメンを啜っていて、ふと気になっただけだ。彼は排水溝である、凍結まではなんとなく理解できるのだ。ただ不可解な騒音やブレーカーの不調という、あまり理解できない物事はどうやったのだろう?
圭介はそう感じたのだ。ハイさんなら、俺には詳しく教えてくれるんじゃないか……そうした見えない前提があって訊いた。ハイさんは伝って落ちた雫をずるりと啜った。圭介の胃袋がやけに響いている。
「よぅく耳を澄ませてみなぁ」
「耳? ハイさんにはないじゃ……いや、あるのか?」
「そりゃあそうとも、あるさ。ほぅらよぅく澄ませてみなぁ」
圭介はカップ麺を置き、割り箸も離した。腕を組んで目を閉じる。だんだんお腹の運動音が聞こえ始める。耳に神経が集まってきているようだ。
……すると、だんだん別の音が聞こえ始めた。誰かの足音、誰かの笑い声。テレビのお笑い番組や、コントローラの操作音。圭介は勢いよく瞼を上げた。ハイさんがゴロゴロと笑う音がした。
「わかるかぁケイスケ、これがキモだ。住んでる人ってのは、そりゃあ色んな音を出す。あくびの音、クソの音、飯の音、微かなイビキの音……」
「にしても、これがなんになるのさ?」
「へへっ、その音が大切なんさ。人が音を出すように、ぼくらも音がある。異常なときって、そりゃあ変な音が出るのさ。それで感じるのさ」
圭介にはわかるような、わからないような、そんな話だった。
はたしてこれがなにに繋がるのか、圭介にはわからなかった。ただ一つわかるとすれば、やはりハイさんは不可解な者であり、人間ではないということだった。
「そら、音だけじゃあないぞぉ。こうして――」
それからハイさんは、圭介にさまざまなことを教えた。主に五感を鋭敏にさせる術だったのだが、やがて人外的知識も披露した。
圭介も楽しんでハイさんの話に耳を傾けて、その夜は流れていった。彼はもう、自身がどのような質問をして、どんな答えが欲しかったなんてのは、覚えちゃいなかった。
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