ハイさん
ベアりんぐ
第1話 排水溝から声
「熱湯流すときは冷水と一緒に流してくれぇ」
そんな情けない声が、どこからか聴こえた。圭介は辺りを見渡し、自宅に誰もいないことを確認したが、やはり誰もいない。幻聴か? きっと夜更かしが祟ったのだろう。彼は無視してカップ焼きそばの湯切りを続けた。
「おぅい冷水をー」
やはり聴こえる! 圭介はカップ焼きそばをシンクに置き、湯気がもくもくと立つ中で排水溝を覗いた。声はそこから聴こえてきていたのだ。
水垢と湯切りの混ざった臭いから、圭介は少し唸ったが、排水溝を覗き続けた。中は暗く、よく見えない。そこで彼は持っていたスマートフォンのライト機能を点け、照らしてみた。
しかしやはりなにもない。へばりついた黒汚れと、流されてしまったキャベツの破片だけが見える。濁った水はいつからそこに溜まっていたのだろう、透明ではなかった。
「ちょい、あんまり照らさないでくれ。眩しくて敵わん」
「うわぁ!?」
圭介が持っていたスマートフォンは宙に浮き、鈍い音を立てて床に落ちた。彼自身も床にへばってしまい、蚊の鳴くような声にならない声でうめくばかりだ。まったくわけがわからない!
「ちょい、冷水だけ流してくれぇ」
また排水溝からはそんな声が。圭介は最初、声主の求めていることがよくわからなかったが、徐々に冷静さを取り戻し、慌てて蛇口を捻った。勢いよく吹き出した水がシンクに落ち、排水溝の闇へ消えていく。
しばらくして排水溝からは、ふぃ〜、と気が抜けるような声が響いた。それを圭介はじっくりと聴いていた。彼はわからないなりに、声主がなにかから解放されたのかと思うと、少しばかり安堵した。
圭介が蛇口を閉めると、水は止まって音も止んだ。当然ながらシン……とした。排水溝からの声も聴こえない。彼はようやく安心した。同時に、さっきの声はやはり幻聴だったんだな、というような結論が脳中に湧いてきていた。
「ふぃー助かったわ」
「やっぱ喋ってんじゃん!」
圭介の胸中にあった安堵はさっぱり消えてしまった。しかし、最初の声を聴いたときに感じていた恐怖心、得体の知れなさよりはむしろ、ただ好奇心をくすぐるようなものが彼の中にはあった。
排水溝からの声はそれからも続いた。圭介は、最初はこの未知に対して懐疑的であったし、自身の精神がおかしくなってしまったんじゃないかと悩んだ。が、声は続いた。声の主は自身を「ハイさん」と称した。どうやら自身が排水溝であることは知っているらしい。
次第に慣れ始めた圭介は、ハイさんとぼちぼち会話をした。それはなんてことない挨拶だったり雑談だったりする。しかしそれが、彼にとっては案外心地良いものであった。
ハイさんは、排水溝であるにも関わらず色々なことに精通していて、きっと知らないだろうと思って話題を振った圭介が、彼の驚くべき知識量や話の面白さに度肝を抜かれたほどだった。
しかし、排水溝である。素晴らしい会話相手を得た、と圭介は喜んだが、おいそれと友人や付き合っている恋人にハイさんのことを話しても、きっと精神がやられたとか、なにか二次元の話だと推察されるだろうと思い、他人には紹介しなかった。
そんなこんなで三週間が過ぎた頃。
圭介はいつものようにハイさんと雑談していた。ちょうど宇宙の創生はどんなだろうと言っていたとき、上の階の部屋から、ドスンドスン、と耳障りな騒音が響いてきた。
「またかよ……」
圭介は舌打ちし、これまで悩まされてきた音に対しての愚痴を、初めてハイさんに言った。
「誰が住んでてなにしてんのかわかんねぇけど、うるさいんだよなぁ」
「ありゃあ、ヨシズミか。確かにうるさいなぁ」
「え、知ってんの? ハイさん」
「当たり前さぁ、ぼかぁこのマンションのことならなんでも知ってるよぉ」
なんだ知っているのか、と圭介はため息をつき、ほんの冗談のつもりで、上の住人に向けた呪いを吐いた。
「なにしてんのか知んねぇけど、階段ですっ転んで頭でも打っちまえばいいのに……」
「ほぅほぅ、ケイスケはヨシズミに不幸になってほしいのか?」
「そりゃあ、ここ入居してからずっとうるさいし、たまに物音で目が覚めるんだよ。しかも大事な日に限って!」
「そりゃあデートか」
「ま、まぁ」
「大事なぁ講義遅れそうになったのもか?」
「そりゃ違うけど! てかどこまで知ってんのさハイさん」
「言ったろう、このマンションのことならなんでも知ってるぞぉ」
どこか自慢げにゴロゴロと鳴らすハイさんに、圭介はやれやれと手を広げてため息をついた。しかし、もう一度ハイさんがゴロゴロと鳴らした後、変なことを言い出した。
「どうだ、親切に会話させてもらってるケイスケに、ヨシズミの不幸を届けるってのは」
「え?」
「ぼくのできることなら、それでちょいいと不幸にさせる、どうだ?」
「それは……」
圭介の中からゴロゴロと変な音がした。正直な話、上の……ヨシズミとかいう住人には、ちょっとした不幸でもあればいいと思ってしまっている。
しかしなぜだろう、ハイさんの提案は、悪魔の問いに聞こえたのだ。コップを手にし、蛇口を捻って水を汲み、ごくごくずるりと飲み込んだ。なにか別の液体が内から湧き出ている気がした。
「ほんとにちょっとだけ、不幸にできる?」
なぜか小声でそう言った圭介に、ハイさんはゴポリと笑って答えた。
「もちろん」
「なら……お願いしようかなぁ」
「もちろん」
ハイさんはそう告げ、沈黙してしまった。圭介が何度か、先ほどよりも小声で呼びかけても、もうなにも言わなかった。
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