第5話

 海が死んだというのに朝のイニシエーションはいつもと同じように進行した。

 食堂とキッチンはちょうど良い高さのカウンターで区切られており、キッチンで大人達が作っている食事が日に三度同じ時間にそのカウンターに置かれる。食事の時間は決まっていて遅れると懲罰の対象なので、時間を意識した行動が自然と養われていた。

 「配膳開始!」

 お盆に乗った食事がカウンターに並び、キッチンから大人がそう叫んだ。死体も片付けられていないが海の死は大人達も知っているはずなので、ぱっとは数えられないがカウンターに乗った食事は十一人分だろう。

 皆がカウンターに向かう中蜜柑が一人机に座って口を半開きにしてぼーっとしている。お盆運べないから立ってもしょうがない。わたしは一往復目を終えて二往復目に向かった。

 お盆にはトーストとスープとサラダとゆで卵と一本のソーセージとパックの牛乳それにデザートのバナナが乗っていた。スープからはコンソメの匂いがして湯気が立っていた。トーストにはジャムとマーガリンのパックが添えられていてわたしはそれが好きだった。サラダに乗ったトマトは嫌いなので蜜柑に処理させるつもりだった。

 わたしはお盆を持って蜜柑の待つ隣の席へと行こうとした。その時だった。

 突如として足元を蹴っ飛ばされ、わたしは正面から転んでお盆の中身をぶちまけた。

 おいしそうだったコーンスープがこぼれて、刻まれたキャベツやコーンやトマトと混ざり合っていた。食パンは少し遠くに飛んでいて皿の下敷きになっていた。わたしは呆然として振り向くと嘲るように笑っている葡萄と目が会った。

 こいつが足を払ったのだと気づく間もなく、キッチンの方から大人が「片付けろ」と叫んだ。

 「あの、今のこいつが……」

 「片付けろ」大人はあくまでも取り合わない。

 「片付けないとダメよ」葡萄が裂けるような笑みを浮かべた。「あなたがぶちまけたんだから」

 葡萄はマネキン人形のように引っ掛かるところのない、腹が立つ程ひたすら整った顔立ちの少女でわたしの一つ上。蜜柑と同じ歳。白い肌で漆のような胸元までの髪をしていて、絹のように滑らかなそれは重力に自然に従って真っすぐ胸元まで垂れている。前髪はぱっつんと切り揃えられていて、冷笑的な表情は性格の悪さを如実に表している。

 「……あんたが片付けなよ? というか、あんたの分寄越せよ」

 「どうして? あなたがこぼしたのに」

 「足を掛けたのはあんただ」

 「言いがかりはやめてちょうだい」

 「どっちでも良い」大人が言った。「早く片付けろ」

 目の前で見ていただろうにどうしてちゃんと葡萄を注意しないんだ。自分達の作ったルールを破る者には容赦ないのに、こういういじめみたいなことは見て見ぬ振りをする。こういう時わたしは自分のいる世界が憎くなる。外の世界に憧れ施設の全てをバカにする恒星の気持ちが分かる。

 実のところこういうことは前にもあって、そのいずれもわたしが片付ける羽目になった。こうしてにらみ合っていても結局はそうなることになると分かっていたし、周りの人間もそれを分かっていて放置している。余計な争いには関与しないという態度。

 誰も助けてはくれない。しかしこいつによってぶちまけさせられたものを自分の手で片付けまでやらされるのは屈辱的だし、毎回毎回負かされていてはいつまで経ってもやられっぱなしだ。わたしは意地を張って葡萄を睨み続けた。

 「あの。葡萄ちゃん。あのね」蜜柑は恐る恐ると言った様子で、額に汗をして歩み寄って来た。「もしかして、今朝のことかな?」

 「今朝?」わたしは蜜柑の方を見る。

 「いやその。挨拶の仕方が気に入らないって言われて……。それで空ちゃんのこといじめてるんだったら、その、あたし、謝るから」蜜柑はその場で膝を着いて深く頭を下げた。「本当にごめん。空ちゃんのことは、出来たら巻き込まないで」

 こいつが葡萄の機嫌を損ねたらわたしに攻撃が行くというサイクルがあるのか? わたしが疑問に思っていると、葡萄は蜜柑の髪を掴んで近くにぶちまけられていた朝食に近付けた。

 「ひっ……」

 「これは誰の分?」

 「だ、誰の分って……」

 「あんたの分? 空の分?」

 「いや、それはまだ決まってなかったというか……」

 「へーじゃあ床に落ちた食べ物を蜜柑は空に食べさせるんだー?」

 「あ、あたしの分です」

 「そっか。じゃ、食べなさいよ」

 葡萄は蜜柑の顔を混ざり合ったスープとサラダの中にぶち込んだ。

 鼻っ面が床にぶつかる嫌な音がした。短い悲鳴と共に衝撃でスープがあたりに飛び散った。蜜柑は痛みと窒息から喘ぐような声をあげたが葡萄は容赦しなかった。蜜柑は顔中をサラダとスープ塗れにして悶え続けていた。

 「あんたの言う通り、別に空には興味はないのよ」葡萄は嗜虐的な表情を浮かべる。楽しくてたまらなさそうだ。「むしろ空のことは気の毒だと思っているの。いつもいつもあんたの介護をやらされるからね。今朝も食べさせてもらうつもりだったんでしょう? その手間を省いてあげようと思って、こうやって朝食を床にぶちまけておいたって訳」

 大人達は何も言わない。いくらなんでもこれは、朝食のルーティーンを妨げたとして、葡萄を注意をしても良いんじゃないか? それとも蜜柑が過去に今いる大人達の仲間を三人殺しているから、それをいじめる葡萄をあえて止めないでいるのか?

 「ちょっとやめてよ!」わたしは怒声をあげた。「もう良い。わたし片付けるからあんたどっか行って!」

 「ダメよ。芋虫にはちゃんと餌を食べさせないと」葡萄は蜜柑の髪を掴んで離さない。「ねぇ空。私は決してあなたを憎んで転ばせる訳じゃないのよ。むしろあなたに楽をさせる為にやったことなの。分かってくれるかしら?」

 こいつは蜜柑の介助をするわたしを良く思っていない。だから時々こうした妨害行動を起こすのだ。

 だがどうしてそんなにまで蜜柑を憎むのか? こいつはいじめっ子だがそれは蜜柑に対してだけで、他の連中には普通に人当たりが良いし好かれている方だ。わたしに対してだって蜜柑が絡まないところだったら何もして来ない。小さい頃は優しかったし、人の痛みを想像できない程のバカでもないと思う。なのにどうしてここまで?

 「あのさ葡萄ちゃん」

 優し気な声がした。ベータだった。

 「あーしね。葡萄ちゃんが蜜柑ちゃんのこと突き放すの少しなら理解出来るの。だけれど、これはちょっと可哀そうじゃないかな?」穏やかだが堂々とした声だった。「そもそもそれは葡萄ちゃんと蜜柑ちゃんの二人の問題でしょう? そうするのが一番蜜柑ちゃんが嫌がるからって、空ちゃんのことを巻き込むのは反則だと思うな」

 ベータは長いまつ毛とカミソリで整えてある眉毛が特徴的な女の子で、わたしの二つ上の十五歳。施設にあるもので大人のする化粧の真似事をするのが好きなファッションリーダーで、どういう手段か髪の毛を栗色に染めることにも成功している。背は高くも低くもないが日々の節制の為か施設で一番スリムな体格をしていた。

 葡萄は何も言わずに蜜柑を解放した。ベータは「ごめんね」と葡萄に一声かけると、わたしと蜜柑のことをそれぞれ助け起こした。

 「あーしも手伝うから、これは一緒に片付けよう?」

 ベータは顔中食い物に塗れている蜜柑の顔を自前のハンカチで拭いている。面倒見の良いお姉さんの口調と手つきだった。蜜柑は「ありがとう……」と蚊の鳴くような声で呟いた。

 ベータは誰にでも優しい女の子で人望があった。わたしもベータのことは好きで尊敬もしていた。葡萄が言うことを聞いたのも、彼女の人徳と無関係ではないだろう。なんと蜜柑の介助も時々なら手伝ってくれるのだ。

 てきぱきとした手つきでベータはぶちまけられた朝食を片付けた。そして自分の席に戻って静かに朝食を再開する。わたしと蜜柑もそれに倣い、一人分の朝食を二人で分けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る