第9話 止めに来た妹
否定する理由は、もう残っていなかった。
そう書いたあと、私はしばらくノートを閉じたまま、机に額をつけていた。
頭の中が静かだった。思考が止まっているというより、余計な音が消えた、という感覚に近い。
外では、風が吹いていた。
窓の隙間から、湿った匂いが流れ込んでくる。沼の匂いだと、私は即座に理解した。理解できること自体が、今となってはおかしい。
私は立ち上がり、妹の部屋へ向かった。
妹の部屋は、あの日からほとんど手を付けていない。警察が一通り調べ、必要なものだけを持ち出したあと、時間だけが堆積している空間だった。畳の色も、机の位置も、妹が最後にそこにいた時のままだ。
私は、引き出しを一つひとつ開けていった。
衣類、文房具、大学の資料。
どれも、よく知っているはずのものだったが、どこか他人の所有物のように感じられた。妹は、私の知っている妹だったのだろうか。あるいは、私が「知っていると思っていた妹」だっただけなのか。
机の一番下の引き出しは、固くなっていた。
少し力を入れると、ぎ、と嫌な音を立てて開いた。
中にあったのは、一冊のノートだった。
大学ノート。表紙に名前はない。だが、角が丸くなり、背表紙が少し裂けている。持ち歩かれていた痕跡が、はっきりと残っていた。
私は、その場に座り込み、ノートを開いた。
一ページ目。
〈兄が、変だ〉
文字は、妹のものだった。
見慣れた丸みのある字。少し癖のある「兄」の書き方。胸の奥が、鈍く痛んだ。
二ページ目。
〈町の人じゃない。
でも、町の人より、町のことを信じている〉
意味が、すぐには掴めなかった。
私は町の外で暮らしていた時間の方が長い。進学し、仕事をし、そして戻ってきただけだ。町の人間ではない、という自覚はある。
だが、「町の人より、町を信じている」とは、どういう意味だ。
ページをめくる。
〈兄は、線を引く。
人と人の間に、見えない線を〉
私は、無意識に息を止めていた。
〈誰が中で、誰が外か。
それを、言葉にしないで決めている〉
私は、ノートを閉じかけ、やめた。
続きを読まなければならない気がした。いや、読む義務があると感じた。
ページを進めるにつれ、文章は具体性を帯びていく。
〈“混ざる”と、兄は言う。
混ざると、壊れる〉
混ざる。
録音機の中にあった、あの言葉。
私は、確かに使っていた。誰に対して? いつ? 思い出そうとすると、頭の中が霧がかる。
〈兄は、誰かが一線を越えそうになると、
急に優しくなる〉
その一文を読んだとき、私ははっきりと理解した。
妹は、私を観察していた。
町を見ていたのではない。沼を疑っていたのでもない。
私を、見ていた。
〈それが、いちばん怖い〉
最後の方のページになると、字が乱れていた。書き直しの跡も多い。
〈私のことも、見ている。
判断している。
家族なのに〉
私は、ノートを床に落とした。
家族。
その言葉が、妙に現実味を持たなかった。
妹は、私の中で「守るべき存在」だった。
だが同時に、私は妹を――
そこで思考が途切れた。
夜、夢を見た。
沼の縁に、妹が立っている。
だが、水はなかった。ぬかるみもない。ただ、深い穴が口を開けているだけだ。
妹は、私を見て言った。
「お兄ちゃん、これ、やめて」
声は、静かだった。怒っても、泣いてもいない。
ただ、確認するような声だった。
「誰が決めてるの」
私は答えなかった。
答えられなかったのか、答える必要がないと思ったのか、自分でも分からない。
目が覚めたとき、夜明け前だった。
私は、録音機を再生した。
新しい音声はなかった。だが、過去の記録を聞き返すうち、今まで聞き逃していたものが、はっきりと浮かび上がってきた。
私の声は、常に落ち着いている。
説明する声。整理する声。判断を下す声。
混乱しているのは、いつも相手の方だった。
私は、精神科医のもとを訪ねた。
私を「治療」として観察してきた男だ。
私は、妹のノートを机に置いた。
「妹は、私を止めようとしていたみたいです」
医師は、ノートに目を落とし、ゆっくりと頷いた。
「ええ。彼女は、あなたの“役割”を、役割だと思わなかった」
「役割……?」
「町に与えられたものではない、という意味です」
私は、反論しようとした。
だが、医師は淡々と続ける。
「あなたは、命令された覚えがありますか」
――ない。
「強制された記憶は」
――ない。
「それでも、やめなかった理由は?」
言葉が、出なかった。
医師は、少しだけ声を落とした。
「妹さんは、あなたにとって例外だった。
あなたが初めて、
判断を躊躇した相手です」
私は、その言葉を否定できなかった。
帰り道、町は静かだった。
誰も私を見ていない。
誰も、私に何かを期待していない。
それでも、私は理解していた。
町が、私を選んだのではない。
私が、町を使っていただけだ。
家に戻り、私は新しいページを開いた。
〈妹は、止めに来た〉
その下に、少し間を置いて、こう書いた。
〈そして私は、
止まらなかった〉
書き終えたとき、外から子どもの声が聞こえた。
無邪気な笑い声だった。
私は、それを聞きながら、思った。
この町は、今日も何も知らずに続いている。
そして――
それを維持しているのが誰なのかを、
知っている者は、もうほとんど残っていない。
沼の声 九重 有 @KAGERI123
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